文化という点から見た表現のよし悪し―遊びによる観点

 昭和天皇を否定する表現に税金をかけるのはよくない。それがよくないのは、日本の民族的人格権を損なうおそれがあるものだからだ。与党である自由民主党の政治家はそう言っていた。

 自民党の政治家が言うように、民族的人格権をものさしとして表現についてを評価づけするだけでこと足りるのだろうか。それとはちがうものさしを当てはめてみたい。

 文化という点において表現を見て行くさいには、その表現が、受けとる人の自制心と(自己)相対化と批判力を高めるかどうかをものさしとして当てはめられる。

 自制心と相対化と批判力は、遊びということと共に、文化に備わっているものであるという。これは歴史家のヨハン・ホイジンガが『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人間)』において言っていることであるそうだ。

 文化という点でのぞましい表現というのは、日本の民族の自制心を高めて、日本の民族の相対化をうながし、(自己)批判力を向上させるものだ。その三つを低下させるようなものや、逆行するようなものは、あまりよいものだということはできづらい。

 文化には遊びによるところがあって、それには自制心や相対化や批判力があることがいる。自民党の政治家が言うように、日本の民族的人格権というのを重んじすぎてしまうと、文化による遊びをなすことのさまたげとなる。遊びではなくて、悪い意味でマジになってしまう。そうではなくて、よい意味で遊びをなすことができるようにして、ゆとりを持つことができればのぞましい。

 参照文献 『知の古典は誘惑する』小島毅(つよし)編著