二〇二〇年の東京五輪を企画として見てみたい―企画にたいして反証(否定)による厳しい目を向けることの欠如

 二〇二〇年に開かれる東京五輪では、気温の暑さが危ぶまれている。それで国際オリンピック委員会(IOC)は、東京五輪のマラソン競歩の競技を北海道の札幌市で行なうように命じた。これはすでに決まったことで、変えることはできないのだという。

 東京五輪を企画として見たら、無理があったということになるのではないだろうか。無理がある企画を通してしまった。

 企画には創造性と現実性と論理性の三つの点があるという。この三つのそれぞれにまずいところが見うけられるのが東京五輪だ。

 一年のうちでいちばん暑い夏に大会が開かれるのにもかかわらず、大会を招致するときに日本(東京都)はこう説明していたという。大会が開かれることになる東京都の夏は運動をするのに向いた理想的な気候である。この説明は、じっさいの東京都の夏の暑さからすれば、不適切で非現実的なものだ。

 東京五輪を企画として見てみると、見こみが甘いところがあることはいなめない。見こみが甘いのは、予測が甘いということであって、きびしく企画の内容を確かめる目が無かったことをあらわす。見こみはあくまでも見こみにすぎず、それを必然として言うことはできない。可能性にとどまる。そうできればよかったが、可能性であるものを必然であるかのように言ってしまった。

 ものごとの進め方において、希望的観測や願望思考(どちらも wishful thinking と言われる)があることがわかるが、これは東京五輪に限ったことではなく、日本の政治に広く見られる弱みである。明治時代に日本を指導するために日本をおとずれたドイツの軍人は、日本の軍人を見て、こう評したそうだ。日本の軍人は希望的観測によってものごとを進めようとする。

 じっさいの二〇二〇年の夏が、そこまで気温が暑くはなくて、運動をするのに適した気温になることはないではないけど、それを当てにしてものごとを進めて行くのは確からしさが低い。見こみがゼロではないにしても、それが低いのだと言わざるをえない。理想化された東京都と、じっさいの東京都のあいだに大きな隔たりがあれば、問題があることをしめす。

 理想化された東京都が現実化されること(二〇二〇年の夏の気温がすごしやすくなること)はないではないことだが、それは可能性ということにとどまっていて、どう出るのかは不確かだ。大会を招致するさいに日本(東京都)が説明していた甘い見こみによる理想化された東京都が、肯定(現実化)されるか、それとも否定(非現実化)されるかで、否定されることになれば、思いえがいていたよりも現実はより厳しかったということである。

 参照文献 『企画力 無から有を生む本』多湖輝(たごあきら) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『竜宮城と七夕さま』浅田次郎