多様性と不快さ―多様性は不快さをもたらすのか

 多様性があることは、不快さをがまんすることだ。吐き気をもよおすことに耐えることだ。

 はたして、多様性があることは、不快だったり不愉快だったりすることをがまんすることなのだろうか。それに耐えることなのだろうか。

 そうではなくて、不快だったり不愉快だったりするのは、多様性がないからそうなるのではないだろうか。

 もし多様性があれば、不快だったり不愉快だったりすることがおきなくなる。なぜかというと、多様性というのはあるべき理想のあり方だからである。目ざすべきものであって、まだ十分には現実化していないものである。

 不快さや不愉快さがおきるのは、多様性があるからではなくて、画一性や一様性になっていることによる。そう見なしてみたい。

 多様性ということを民主主義になぞらえられるとすると、その二つには共通点がある。民主主義では、じっさいにそうなったというよりも、たえまなくそれを目ざして行くというあり方が言われている。永久革命としての民主主義(丸山真男)とか、来たるべき民主主義(ジャック・デリダ)とかとされる。そうしたように、多様性ということもまた、たえざる多様化(を目ざす)ということではないだろうか。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『波状言論 S 改 社会学・メタゲーム・自由』東浩紀(あずまひろき)編著