新しい天皇陛下が即位するもよおしにまねかれる客と、客むかえ―天皇に近しい人だけがまねかれるのではあまり意味がない

 昭和天皇を否定する表現をふくむ作品を、愛知県知事はよしとした。

 愛知県知事は、昭和天皇を否定する表現をふくむ作品をよしとしたのだから、新しい天皇陛下が即位するもよおしに呼ぶのはふさわしくない。愛知県知事にはもよおしには来てほしくない。天皇家の親戚に当たる人は、ツイッターのツイートでそう言っていた。

 愛知県知事は、はたしてもよおしに来るべきではないのだろうか。もよおしに行かないほうが天皇陛下のためになるのだろうか。

 おもてなしや客むかえの観点から見られるとすれば、愛知県知事はもよおしにまねかれるべきであって、それがホスピタリティにかなうことである。

 愛知県知事がそうだというわけではないが、かりに天皇陛下をよしとしない人がいるとしても、その人が天皇陛下と近づくことがあってはならないということはない。ホスピタリティというのは、天皇陛下に近い人をまねくことではなく(それだけではなく)、遠い人をまねかないと真の意味はない。真の値うちはない。

 愛知県知事は、天皇陛下のことをじかに否定したのではないのだから、もよおしにまねかれてはならないということにはならないものだろう。天皇陛下のまわりの人がどう思うかではなくて、天皇陛下その人がどう思っているのかというのは、はたからはほんとうにはうかがい知ることはできづらい。

 まわりの人の思うことではなくて、天皇陛下その人がどう思っているというのとは別に、天皇制の歴史の文脈もまた無視することはできづらい。天皇制の歴史においては、天皇が現人神(あらひとがみ)としてあつかわれたことによって、戦争につっ走って行ったという大きなまちがいがおきた。それで戦後は天皇は人間だということになった。

 過去をふり返って見れば、戦争につっ走って行ったという、歴史における大きなまちがいをおかしたことが天皇制にはあるのだから、善そのものというのではない。天皇制や天皇という役割(地位)を、あたかも善そのもののようにしたて上げるのはまちがいではないだろうか。歴史をくみ入れれば、天皇制や天皇という役割は、批判されるいわれがあるのであって、それを批判した人が悪いとするのは、責任の転嫁や欺まんだというところがある。いまの天皇陛下(や平成の天皇)が悪いというのではないが。

 参照文献 『近代天皇論 「神聖」か、「象徴」か』片山杜秀(もりひで) 島薗(しまぞの)進 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司