表現のよし悪しと、道徳論によるよし悪しの見なし方―道徳と倫理

 昭和天皇を否定する表現をふくむ作品は、道徳として悪い。道徳として悪い不道徳なことはやってはいけない。不道徳なものにたいして税金を使うことはおかしいことだから、税金を使わないほうがふさわしい。これは道徳論による見なし方だ。

 道徳からしてよくないことだとするのは道徳論によるものだが、それよりも次元をやや引き上げるようにして、倫理として見るようにするのはどうだろうか。道徳の問題ではなくて、倫理の問題だと見なす。

 倫理の倫という字は、人々のまとまりという意味をあらわすという。人々のまとまりにおいて、どのようなあり方(理)がふさわしいかというのがある。

 どのようなあり方がふさわしいかにおいて、人によってさまざまな価値があることに気をつけたい。さまざまな価値があることから、さまざまな表現が行なわれるのだと見なせる。たった一つの価値しかないのであれば、たった一つの表現に収れんしてしまうだろう。

 倫理の倫という字は、人々のまとまりということを意味するが、集団主義というよりも、個人主義によるあり方をとることができる。個人主義であれば、個人の尊重ということで、それぞれの人がちがっていてよいはずだ。みんな同じでなければならないということであればそれは(悪しき意味での)集団主義だ。

 道徳的かどうかという点では、道徳的かそれともそうではないのかというのは、必ずしもはっきりとはしないところがある。道徳的であるに越したことはないが、不道徳であるからといって、物理的に他者に危害を加えてはいないのなら、(愚行であるとは言えたとしても)法律の決まりを破ったとまでは言えないことだろう。

 不道徳な表現がいけないのだというのであれば、具体としてどのようなものが不道徳に当たるのかというのがあるし、同じものは同じようにあつかわないとならない。なるべく二重基準にはならないようにすることがいる。

 天皇というのが権威であるとして、それを批判や否定をすることはいけないことなのだろうか。権威を肯定するだけなのであれば、それをたんにたてまつるだけになって、権威化や教条化することをうながす。

 権威の一般ということでいうと、それを肯定するだけではなくて、批判や否定することもまたあったほうがよい。権威についてを肯定するだけなのであれば、それを疑わないことになるが、そうすると絶対的によしとすることになりかねない。

 わけもなくただ人を悪く言うのは(もしわけもなくただ人を悪く言っているだけなのであれば)よくないことかもしれないが、そうかといって、ただ肯定するだけで疑わないこともまたよくないことなのではないだろうか。権威であるからよいとする、盲目の権威主義もまたあまりよくないことであるはずだ。

 参照文献 『倫理思想辞典』星野勉他 『倫理のプロブレーマ 精神の成熟をはばむ現代の社会』上利博規(あがりひろき) 『正しく考えるために』岩崎武雄 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香