社会に反対や対立する芸術や文化にたいする許容性―芸術や文化のもつ二重性(自律性と社会性)

 表現の不自由展において、国民からの批判の声がおきた。このもよおしには税金が使われていたことから、税金をまちがったことに使っているという声が言われている。

 表現の不自由展では、従軍慰安婦にまつわる作品や、昭和天皇を否定する作品があつかわれているという。

 文化や芸術の作品は、人々に快いものだけがよしとされるべきなのだろうか。人々にとって不快なものは、のぞましくないものなのだろうか。

 文化や芸術で、人々にとって快いものだけがよしとされるのであれば、陶酔のものとなる。それだけではなくて、覚醒のものもまたいる。覚醒のものは、人々にとって快いだけではなくて、不快さをおこさせるものでもある。たんに快いものであるだけではない。

 哲学者のテオドール・アドルノ氏は、芸術には二重性があると言っているそうだ。この二重性とは、自律性と社会性だ。自律性というのは、社会から距離をとれているのをあらわす。そのことによって、社会にたいする批判をすることができるようになる。

 社会の中にはさまざまな人がいて、そこには対立や矛盾がある。その対立や矛盾があることを人々に思いおこさせる働きをするのが芸術や文化だ。それゆえに、人々にとって快いものつまり陶酔をもたらすものだけではなくて、不快さをもたらすものつまり覚醒のものもまた欠かすことができない。

 ただ気持ちよさや快さを追い求めるのであれば陶酔によるだけだが、それだけではなくて、不快さをもたらしはするが覚醒をおこさせてくれるものもまたあったほうがよい。ことわざでは良薬は口に苦しと言われているのがある。口に苦いつまり気持ちよくならないものであっても、それが良薬であるということが中にはある。

 芸術や文化が、ただ社会に従うだけなのであれば、自律性を欠いている。他律性によってしまっている。そのことによって、社会を批判としてあらわす働きを失う。

 社会が健全であるためには、芸術や文化が自律性と社会性の二重性を保てるようにすることがいる。社会にとって都合のよいような、気持ちよさや快さをもたらす芸術や文化だけを許すのであれば、それは社会に不健全さをもたらす。その危険性がある。

 色々な質をもった芸術や文化の実践がさまざまに行なわれるのを許したほうが、社会の風通しがよくなる。社会にさまざまな抜け道があるようにできる。そうしたようであったほうが、人々が生きて行きやすくなるのではないだろうか。

 画家の岡本太郎氏は、きれいであることと美しいこととはちがうと言う。きれいであるのは美しいこととは同じことではない。美しいことは、いやったらしいものでもかまわないもので、汚いものや気持ちのよくないものでも美しいと言えるのだと言っている。いまの時代における芸術は、上手くあってはならず、きれいであってはならず、ここちよくあってはならない、ということだ。

 参照文献 『美学理論の展望』上利博規(あがりひろき) 志田昇(しだのぼる) 吉田正岳 『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』岡本太郎