いまの日本に表現の自由はあるのか、ないのか―多元と包括と排他(排斥)の三つの点で見てみる

 いまの日本には、表現の自由がないはずがない。日々の報道でさまざまに報じられていることを見ればそれは明らかだ。表現の自由がないというのは、表現する人に失礼だ。首相はそう言っていた。

 いまの日本に表現の自由がないのなら、政権に都合の悪いことを言う人が処罰されることになる。表現の自由を目に見える形で誰にでも分かる形で明らさまにうばわれる。そうはなっていないのだとすると、表現の自由はあるのは明らかだ。ツイッターのツイートではそう言われていた。

 表現の自由というのは、あるか無いかというふうに二元論で見るのは必ずしも適したことだとは言えそうにない。

 もっとものぞましいのは、色々に多元な表現が許されることだ。いまの日本は、もっとものぞましいと言える多元のありかたになっているのかというと、そうとは言えそうにない。そういう点では、いまの日本には理想的と言えるほどには表現の自由はない。かなりきびしく言えばそう言えるだろう。

 交通のあり方でいうと、多元であるためには、双交通になっていなければならない。双方向性になっていて、交流があることがいる。そうはなっていなくて、一方向性になっているのは単交通だ。いまの日本は、単交通になっていて、右や左などがたがいに分断してしまっているのがある。国の政治を見てみても、右と左が互いに交通し合うようになっているとは見なせない。交通し合うというよりも平行線のようになっている。

 明らさまに表現が弾圧されたり禁止されたりするのではなくて、まあお目こぼしで許してやろうというのは包括だ。これによる表現の自由があるのだとしても、理想的であるとまでは言えそうにない。ていどの高い自由ではなく、理想となる自由にはほど遠いものである。

 見える形ではなくても、見えない形でも表現が禁じられる。これは排他や排斥である。いまの日本において、排他や排斥になってしまっているところがあることが見うけられる。表現の自由がうばわれたり、うばおうとしたりする動きだ。

 報道機関で報じられることを見てみると、もっとものぞましいものである多元のあり方になっているとはとてもではないが言えそうにない。包括になっているとも言いがたく、排他や排斥になってしまっているのではないだろうか。じっさいのところは、少しくらいの包括はあるが、主として排他や排斥となっている。多数派に顔を向けすぎている。一つの方向に全体が流されてしまいやすい。

 報道機関で報じられることの問題点として言われているのは、娯楽の情報にかたよりすぎている点だ。政治というのは、娯楽としてあつかうべきではないものだけど、それを娯楽化して報じていることが多い。それと、政治家の個人(人物)に焦点を当てすぎていて、それによってかえって政治家を駄目にしてしまっている。政治の個人化だ。悪目立ちみたいなふうになって、中身がない報道になる。報道の構造の問題だ。

 表現の自由というさいの自由というのには、さまざまな意味あいがあって、色々に見なせるものだから、色々な視点がなりたつ。自由があるということも言えるし、ないということもまた言える。いまの時の政権の首相が言うように、自由があるということで終わりにしてしまうと、表現の自由にまつわる問題を見つけて行くことの役には立たない。報道で報じられていることを含めて色々な問題がおきていることは無視できそうにはない。

 参照文献 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『情報政治学講義』高瀬淳一 『言の葉の交通論』篠原資明(しのはらもとあき)