理と気において、理を抜きにして気だけを追うあり方―片方だけに偏っている

 経済の利益である気を追う。国の政治家であれば、票や議席数を追う。それは悪いことではないが、それだけに偏ってしまうのはまずい。

 経済の利益や、国会議員であれば票や議席数などの数字を追うのだけに偏ったあり方が目だつ。それだけを追うのは、はしたないところがあるが、むしろどれだけはしたなくなれるかを競い合っているふうですらある。理を抜きにして気だけを追うのは、そこに躊躇(ちゅうちょ)や含羞(がんしゅう)がおきるものだが、そうした感覚(良識)が無い者が勝つ、といったようなところがある。

 儒教理気学では、理気双全(りきそうぜん)と言われるのがあるという。これは、理と気のどちらかだけではなくて、どちらもが共にあることをさす。どちらかだけに偏っているあり方ではない。

 建て前と本音や、義理と人情があるとすると、建て前と義理は理に当たり、本音と人情は気に当たる。それらのあいだでつり合いがとれていればよいが、不つり合いになるとのぞましくない。

 義理と人情では、人情を欠いた義理は冷たい義理だとされる。人情をともなった義理は温かい義理だ。温かい義理は、理気が双全になったものだと言えるだろう。いまの日本の社会には、温かい義理が欠けていて、とても冷たい義理が多くとられているように見うけられる。冷たい義理すらないこともある。自己責任ということで片づけられてしまう。

 建て前よりも本音をとるのや、義理よりも人情をとるといった、理よりも気だけを追うあり方になると不つり合いをまねく。理よりも気だけを追うのは、いくらそれができたところで、それほどえらいことだとは言えそうにない。理と気を共にとるようにして、理と気ができるだけ双全となるようにしたほうがよい。どちらかの一方だけに偏らないほうが安全だ。

 参照文献 『韓国人のしくみ 〈理〉と〈気〉で読み解く文化と社会』小倉紀蔵(きぞう) 『韓国は一個の哲学である 〈理〉と〈気〉の社会システム』小倉紀蔵 『義理 一語の辞典』源了圓(みなもとりょうえん) 『金田一秀穂のおとなの日本語』金田一秀穂