お笑いにおける問題となる発言―省略と冗長性

 お笑い芸人のネタやライブで、黒人の人を差別することを言う。そうしたことがいくつかおきているという。悪意があってのものではないかもしれないが、だからといってよいということにはなりそうにない。

 日本のお笑いは、省略の文化によっているとされる。省略して笑いを取ることが多いので、そこから差別につながることがおきてくる。ネタなどにおいて、独断と偏見による前提条件がとられて、そこで誤った価値観がもとにされることになりやすい。

 お笑いで目ざす面白さというのは、これこそまちがいがないといった、みんなで共有できる同質のものではなくて、細分化されてきている。それにうまく対応して行くことがいるのではないだろうか。

 タレントのビートたけし氏は、これまでは動脈や静脈のようなものだったのが、いまでは細分化されて毛細血管のようになって、それぞれの人の好みとなって行っているのだと言っていた。

 一つのものさしだけによって、面白さを点数づけるのではないあり方がとれる。一〇〇点から〇点という学校の試験で行なわれるような点数づけが当てはまるのではないあり方だ。たった一つのものさしだけで、これは一〇〇点だとかこれは〇点だとかとは決めつけられず、ある人にとっては一〇〇点だが、別な人には〇点だということがおきる。

 いまの時代の難しさは、ものさしがたった一つなのではなくて、いくつものものさしになっているところだろう。たった一つだけではなくて色々なものさしがあることをくみ入れて、ある人にとってみれば〇点やマイナス点のおそれもあるということをとくみ入れてやって行くことがいる。

 同質のかたまり(マス)ではなくて、質のちがう人たちが、それぞれにちがう遠近法やものさしを持っていて、それらが集まったものとして社会をとらえることができる。同質のかたまりつまり多数派にうったえかけるというよりは、色々なちがいをもった人たちがいるというのをふまえて、省略ではなくて冗長性をとったほうが無難だ。

 省略によるのだと、利益は高いかもしれないが危険性もまた大きい。それを避けるようにして、冗長性をとるようにして、前もって政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)についての知識などを多少は知っておく。そうした知識を多少は仕入れておくのは、じかにお金もうけやお笑いの面白さにつながるものではないかもしれないが、とくにテレビなどの表舞台で何かを発信する人にとっては無駄なことではないだろう。

 政治的正しさなどの建て前となるものを知っていないで、たんに本音を言うだけでは、見る人が見れば分かってしまうし、まちがいになることがおきやすい。いまの日本のテレビでは、建て前を知らないのや、建て前をとらないで、じかに本音を言うことがよしとされているのが多いように見うけられる。そこに欠けてしまっているのは冗長性だろう。

 参照文献 『哲学塾 〈畳長さ〉が大切です』山内志朗(やまうちしろう) 『いつも心に紳助を ファイナル』島田紳助