文化庁の言っている見解には説得性がそれほどありそうにはない―すでに文化庁はもよおしの内容を具体として知ってしまっているので

 文化庁は、愛知県で開かれるあいちトリエンナーレについて、補助金を交付しないことを決めた。

 あいちトリエンナーレでは、表現の不自由展が行なわれて、そこでは従軍慰安婦にまつわる作品があつかわれている。いまの時の政権はこれを嫌っているのだと見られる。それで、補助金を交付することを認めたくない。できれば支払いたくない。

 文化庁が決めたことには、いまの時の政権の意向があると見られるのだが、あくまでも文化庁は、あいちトリエンナーレのもよおしの内容ではなくて、もよおしの運営においてまずいところがあったために、補助金の交付をしないことにしたと言っている。

 この文化庁が言っている見解は、そのままうのみにすることができづらい。それというのも、文化庁が言っていることは、もし文化庁があいちトリエンナーレでどんな内容がとりあつかわれるのかを具体的に知らないのであればそれなりに通るかもしれないが、すでにその内容を知ってしまっているのがある。

 文化庁は、あいちトリエンナーレのもよおしで、表現の不自由展が行なわれ、そこで従軍慰安婦にまつわる作品があつかわれるのを知っているのだから、その知っているということが、文化庁の意思決定に影響を与えていないということはできづらい。

 文化庁の言っている見解は、説得性に欠けているところがある。すでにもよおしの内容を知ってしまっているのがあるし、普遍化の可能性において問題がある。特殊な決定になってしまっているおそれが低くない。特殊で個別になるのではなくて、普遍化ができるようにして、同じものについては同じあつかいをするという公平なあり方が自由主義ではいるが、それができているとは言えそうにない。

 もよおしの内容を、従軍慰安婦にまつわる作品をあつかっているかどうかはいったん抜きにして、定項ではなくて変項にする。定項というのは必須(特定のもの)で、変項は任意(不特定のもの)である。定項は定まった具体のもので、変項は数学の X のように、そこに具体のものをさまざまに代入できるものだ。もよおしについて、必須のものではなくて、任意であるとして、ある任意のもよおしにおいて、というふうに見て行く。

 任意のもよおしにおいて、それのさまたげとなるような、犯罪やどう喝まがいの脅迫が行なわれて、もよおしを行なうのに支障がおきた。犯罪やどう喝に対処するさいに、完全に応じられたのではなくて、不手ぎわがおきた。この不手ぎわがおきたということをもってして、補助金の交付を打ち切ることを決めたのである。不手ぎわがあったことを文化庁はとても重大で深刻なことだと見なしたのだ。

 もしこれがふさわしい決定であるのなら、いかなる任意のもよおしにおいても、それについて犯罪やどう喝まがいの脅迫が行なわれて、それへ応じることに不手ぎわがあったのなら、補助金の交付が打ち切られることになってしまう。公平さという点では、同じものについては同じあつかいをするべきであって、あつかいを変えるのであれば、内容によってあつかいを変えているということになりかねない。

 定項や必須つまり特定のものとしてではなくて、変項や任意つまり不特定のものとして見るのであれば、文化庁が示している補助金を交付しないと決めた理由は、針小棒大なものなのではないだろうか。針のように小さなことを、棒のように大きなことだと見なしている。周辺のことと核心のこととを取りちがえている。

 もよおしの運営者は、犯罪やどう喝まがいの脅迫がおきたことについて、非のうちどころがないほどに完全に対応することはできなかったのだとはいえ、いちじるしい不手ぎわがあったとまでは言いがたい。文化庁の決定は、もよおしの運営者にたいして、泣きっ面に蜂というか、傷口に塩を塗るというか、弱い者いじめのようになっているものだと映る。

 もよおしの運営者の内に非があったのだと見すぎであって、そう見るだけだとかたよりがある。もよおしの運営者の内ではなくて(内にも多少の非はあっただろうが)、外つまりとり巻く状況におかしいところがあったのが大きかったのではないだろうか。

 参照文献 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』井上達夫 『クリティカル進化(シンカー)論』道田泰司 宮元博章 『本当にわかる論理学』三浦俊彦記号論』吉田夏彦 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)