自国である日本のことを知ることと、無知の知の有益性―欠如モデルと対話モデル

 日本をおとしめるのは反日売国だ。自虐だ。日本をよしとするのは愛国だ。そのように、日本を嫌うか好きになるかや、愛さないか愛するかというのではなくて、知についてを見てみることができる。

 知ということで言うと、日本人だから日本のことを知っているとは必ずしも言えないのではないだろうか。日本人だから知日だとは言いがたい。かえって、日本人だからこそ日本のことを知ることがさまたげられていることがないではない。そこに好きや嫌いや、愛さないや愛するといった、知ではないことが介在してしまいやすい。

 反日売国や自虐をやめて、愛国をよしとする、というのではなくて、知日や知国を目ざして行く。そのさい、日本人だからといって知日や知国だとは言えないので、そこに注意をすることがいる。

 知日や知国を目ざすさいには、勉強が不足しているといったように、欠如モデルによるのだけではなくて、対話モデルによることがとても有効だ。対話や議論のやり取りによって、ものごとを知って行くことが見こめる。欠如モデルだけではなくて、いかに対話モデルがとれるのかが、日本を知って行くことには欠かせない条件だ。

 たとえ日本人だからといって、知日や知国であるとは限らず、むしろ日本について知らないことが多い。そういうあり方を出発の地点として、少しずつ日本についてのことを知るようにして行く。

 知っている領域よりも、知らない領域のほうがよほど多い。まだまだ知らない領域は多く残されている。日本について、そう見なすことはできるものだろう。よほど博識で、日本のことについてをかなりくわしく精通している人でない限りはそう言えるはずだ。

 無知の知みたいなあり方をとって、知らないということを知って行くようにすることが役に立つ。改めて見れば、思っているほどには、知っていることは多くはないかもしれないし、知らないことは少なくはない。無知というのは、(その自覚があるのであれば)必ずしも悪いことではないし、知ということでは、日本のことをすでに十分に知悉(ちしつ)しているのだと思いこむことは、必ずしもよいこととは言えそうにない。

 参照文献 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 「求道(フィロ=ソフィア)と智慧(仏智)の関係 驚くことの意味について」(講演) 今村仁司