表現されたものが引きおこすさまざまな波紋―行為と(それにたいする)反応という一つの組みで見てみる

 愛知県で開かれる、芸術と文化のもよおしであるあいちトリエンナーレに、文化庁補助金を交付しないことを決めた。これについて、政治の権力による表現への介入や検閲に当たるという批判の声が投げかけられている。

 あいちトリエンナーレでは、表現の不自由展が行なわれて、そこで従軍慰安婦にまつわる作品があつかわれた。従軍慰安婦については、歴史として本当のことだとか嘘だとかというふうに、賛否が分かれている。

 表現というのは一つの行為だ。その行為にたいして、とてもではないが受け入れられないということで、犯罪が行なわれたり(どう喝に近い)脅迫が行なわれたりする。その犯罪や脅迫というのもまた一つの行為だ。

 抽象化して見られるとすると、表現というのは一つの行為だし、それにたいする負の反応としての犯罪や脅迫もまた一つの行為だ。

 行為にたいする反応がおきて、それで行為が行なわれる、という流れが見てとれる。行為と、それにたいする反応というのが一つの組みになっている。

 表現という行為にたいする反応としては、さまざまなものがおきることになるが、そのさいに反応として取られるべきなのは、表現行為にたいしては表現行為によって言いぶんを投げかけるという対抗言論のあり方だ。表現ではなくて、力で押し通そうとするのはのぞましいことではない。原則としてはそう言える。例外は中にはあるだろうけど。

 例外があるというのは、たとえばテロというのは犯罪だが、テロの行為者は別名では自由の闘士とも言われ、必ずしもテロの行為者が悪いとは言い切れないことがある。このさい、紛争を何とかするためには争点となっていることを解決することがいる。また、テロは犯罪であって、それをしてもよいということにはならないのはたしかだ。

 表現という行為を見てみると、それにたいする反応として、犯罪や脅迫という行為をしてしまうのは、許容することができないものであって、社会の中で守るべき義務に反することが行なわれたのだというふうに、しっかりと反応することがいる。

 社会の中において、賛否が分かれるものではあるにせよ、表現の自由の中におさまることが表現として行なわれたのであれば、それは許容されてよいことだろう。許容とはいっても、中には受け入れられないとか、すごく嫌だとか、まちがったものだというふうに受けとめる人はいるだろうが、社会の中で守るべき義務に反したとまでは言えない。

 いちおうは表現の自由に中におさまるものとして、たとえ賛否は分かれてしまうにせよ、許容することができる表現について、それにたいする反応として犯罪や脅迫が行なわれる。この犯罪や脅迫にたいしては、社会の中で守るべき義務に反したものなのだから、受け入れられるものではないのだということをしっかりと言うことがいる。そこのちがいがある。そこを切り分けるようにして、ちがいを見るようにしたい。

 人によってさまざまな反応がおきてしまうものではあるものの、いちおうは受け入れられると認められる表現と、それとはちがって受け入れることができない犯罪や脅迫がある。この二つについて、どういった応報(罪と罰)をとるべきなのかがある。つり合いのとれるような応報のとり方をすることがいる。

 いちおうは受け入れられる表現のほうを強く非難して、受け入れられるものではない犯罪や脅迫のほうは見逃してしまう。これでは応報のつり合いを欠いているのだと見なさざるをえない。犯罪や脅迫をしたもの勝ちになってしまいかねない。応報の正義にかなっていて、つり合いが取れているのでないといけないが、文化庁(時の政権)が決めたことは、社会の分断が深まることをうながす。

 参照文献 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『文学の中の法』長尾龍一 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)