気候や環境について、大人にたいして投げかけられる批判―年齢や世代や地域による階層の差がある

 グレタ・トゥーンベリ氏は、大人のことを批判しすぎている。それはどうなのか。ラジオで識者はそう言っていた。

 トゥーンベリ氏は気候や環境について強い問題意識を持っていて、環境活動家として行動をしている。

 大人のことを批判しすぎだということでは、じっさいのトゥーンベリ氏の演説は、ただやみくもに大人のことを批判しただけのものではなくて、科学のデータを用いて自分の主張を言っていたという。演説の全体を見ればそうだが、そこから報道機関が報道するさいに取捨選択をすることで、中身がやや偏ったものになって報じられる。そうも言われていた。

 トゥーンベリ氏は、経済の成長や永続の発展はおとぎ話だと言っていたようだ。これにはうなずけるところがある。もはや地球は総量規制がかかっている状態だと言われている。無理がきかないのである。人間圏には総量規制がかかっていて、地球は悲鳴をあげているのだと、科学者の松井孝典氏は言っている。漫画家の手塚治虫氏は、地球をあたかもガラスのようにもろいものだとして、それを救うことがいるのだと言っていた(『ガラスの地球を救え 二十一世紀の君たちへ』手塚治虫)。

 あれかこれかや、一か〇かまたは白か黒かの二元論ではないのはあるが、経済の成長は経済の成長で、気候や環境のことについては気候や環境のことというふうに、うまく切り分けることはできるのだろうか。それらは切り分けられることというよりは、結びついてしまっているところがある。どちらか一方だけしか選べないというのではないかもしれないが、そう都合よくことが運ぶとは見なしづらい。

 経済の成長ということで言えば、それは必ずしもよいことだとは言い切れそうにない。すべてが人間の益になっているとは言いがたい。経済の成長というのは軍事の生産や開発と結びついている。その二つは相関しているところがある。よほどはっきりとした平和の理念を持っているのではないかぎり(たとえば戦後のごく短い一時期までの日本のように)、経済の成長は軍事の生産や開発と結びついてしまいやすい。

 軍需産業で、武器をつくることでもうける死の商人がいる。人々を生かすというよりも、殺すための道具である武器をつくって、それを使うことをうながしてしまっているのがあって、じっさいにそれが行なわれてしまい、命がうばわれることがおきている。

 世界の各地では、わかりやすい戦争ということではなくて、戦争における前線(戦場)と銃後(非戦場)との区別がなくなって、銃後の前線化がおきている。世界のさまざまなところが、犯罪であるテロにねらわれる。いつどこで、犯罪であるテロがおきてもおかしくはない。

 経済の成長はほどほどのところにしておいて、できるだけ循環型の定常のあり方になるようにすることがいるのではないだろうか。とめどない成長というのはおとぎ話に響くのはいなめない。どこかで歯止めをかけないと、欲望は強まって行くばかりで切りがない。加速というよりも(どちらかと言うと)抑制をかけることがいる。そうしたことが問われているのだと言えそうだ。

 チェンジということで、あり方の質的な転換をすることがいるのであって、質を変えて行くようにする。たんに経済の量だとか数字だとかを拡大するのや、それらを追いかけて行くのはのぞましいことであるとは言えそうにない。あまりにも生産が過剰になりすぎてしまっていて、それにたいして需要が追いついていない。そうしたところもありそうだ。つくることありきのようになってしまっている。食べもので言えば、日本や世界ではつくりすぎた食品を廃棄する食品ロスの量は多いという。

 必要であればつくることはいるのはあるし、基礎となる物質の財や富が広く行きわたることによる恩恵は大きい。生活をより充実して楽しめるような上級(高級)の財や富の恩恵もまた大きい。その恩恵はたしかに大きいが、生産することが自己目的化してしまい、そればかりになるのではないようにして、ほどほどになるようにして、どこかで資本主義による拡大再生産に歯止めをかけるようにしなければならない。いまはそれがうまくできていないと見られるのだが、それにたいして、自分を含めて大人にたいして厳しい批判が投げかけられているのを、受けとめることがないとならない。

 参照文献 『日本進化論 二〇二〇年に向けて』出井伸之(いでいのぶゆき) 「近代世界と環境問題」(「生活起点」No.五六 二〇〇三年一月) 今村仁司 『戦争の克服』阿部浩己(こうき) 鵜飼哲(うかいさとし) 森巣博(もりすひろし)