もよおしや作品の政治性と、それにまつわる一連の流れや対応の政治性―力と利益と象徴(表現)の三つの点から見てみる

 国際的な芸術祭である、愛知県で行なわれるあいちトリエンナーレに、補助金を交付することを取りやめる。文化庁はそう決めたという。これにたいして抗議の声がおきている。文化庁がやっていることは検閲に当たるという声や、補助金の交付が認められる流れだったのをふいにくつがえしたことに疑問の声が生じている。

 あいちトリエンナーレでは、表現の不自由展が行なわれて、それにたいして賛否の両方の声がおきた。このもよおしでは従軍慰安婦にまつわる作品があつかわれていた。政治や歴史に関わるものであることから、芸術や文化に政治をもちこむなということが一部で言われていた。

 政治を持ちこむということについては、あいちトリエンナーレにまつわる一連のできごとそのものを、政治にまつわることとして見ることができそうだ。一連のできごとを政治として見るさいに、力と利益と象徴(表現)の三つの点を用いられる。

 あいちトリエンナーレの表現の不自由展では、従軍慰安婦にまつわる作品があつかわれることについて、それに反対する人の一部が犯罪の行為をおこした。脅迫がおきた。これは先の三つの点でいうと、物理(や数)の力の行使だ。物理の力の行使によって、表現を止めさせようとした。これを許すのはおかしいことだから、力の行使によって表現をさまたげることを後押しするのは駄目だし、力の支配ではなくて法の支配になるようにしなければならない。

 文化庁は、お金(補助金)は出すが口は出さないということであれば、表現の内容に介入するのではないようにしなければならない。表現の内容である実質については問わないようにして、形式だけに踏みとどまらなければならない。国や時の政権をよしとする表現には利益を与えて、そうではない表現には利益を与えない、というのだと、表現の内容である実質に介入してしまっている。お金を出すかわりに口も出させろという、日本の政治ではよくありがちなあり方だ。

 政治が表現の内容に介入しないようにするのであれば、さまざまな質の表現が広く受け入れられるべきである。国や時の政権をよしとする表現だけではなくて、そうではない表現についても承認されることがいるし、承認されるからには利益の配分が受けられるようであることがいる。

 さまざまな質の表現が広く行なわれるようにすることが、日本の政治や歴史について益にはたらく。たった一つだけの正しい政治や歴史の見かたというのはなりたちづらいからだ。政治や歴史についてはさまざまな見かたが取られることがあってよいものだ。自由主義における思想の自由市場という形で、さまざまな表現や言論が自由に行なわれることが、全体の効用を高めることにつながるし、判断の材料がたくさんあるほうが何がほんとうのことなのかを見るさいに有効だ。

 何が利益になるのかというのは、長い目で見なければ分かりづらい。いまの時点で、いまの時の政権が、これは利益になる、これはならない、というふうにかってに判断するのはまちがいのもとだ。時の政権というのはえてして短期の利益にかたよりがちなものである。短期の視点によりやすい。視野が狭窄(きょうさく)になっていて、広い視点から見られていないおそれも低くない。

 あいちトリエンナーレにおける一連のできごとを政治として見られるとすると、力と利益と象徴(表現)の三つの点がとれるが、そのそれぞれについて国や文化庁のあり方にはおかしいところがあることが見うけられる。国や文化庁は、法の支配や法の下の平等ではなくて、犯罪や脅迫の行為などの力の支配をよしとしてしまっているところがあるし、利益の配分が恣意(しい)になっていてかたよっているし、象徴(表現)について、さまざまな質の表現を広く受け入れようとはしていない。

 参照文献 『国家の役割とは何か』櫻田淳 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)