過去の日本の知識人(の少なからず)がおかした負の行動を知識化することがいる―過去の失敗情報を隠ぺいせずに知識化することの必要性

 自虐史観や自虐思想か、それとも愛国の歴史か。それは歴史の中身についての話だけど、それとは別に、戦争のさいに当時の知識人がとった態度や姿勢の問題がある。

 歴史の中身についてとは別に、それと同じかそれより以上に、戦争のさいに当時の知識人がとった態度や姿勢には大きな問題があったのではないだろうか。

 戦争のさいに、当時の知識人の少なからずが、戦争に加担する行動をとった。またはとらざるをえなかった。

 愛国の歴史ということだと、戦争のさいに当時の知識人の少なからずがなした、戦争に加担したというあやまちについて、そのあやまちを免罪してしまうことになってしまうのではないだろうか。

 作家の関川夏央(なつお)氏によると、日本には厳密には知識人はいないという。知識的大衆がいるだけだという。日本には知識人は不在であって、大衆に毛の生えた知識的大衆がいるだけだというのは、いまの世の中のありようを見てみても、それなりに説得性がある。

 厳しく見れば日本には知識人はいないかもしれないが、それをゆるめてかりに知識人がいるとして、過去の日本の歴史からくみ取るべきこととして、過去の日本の知識人の少なからずが、戦争に加担する行動をとったということにあるのだと見なしたい。時の権力のやることをよしとして、それによって利益が与えられた。

 いまの時点からすれば、戦争のさいに過去の日本の知識人の少なからずがとった行動は、戦争に加担したという点において、まちがっていたのだと見なせる。時の政権をよしとして、戦争に加担することによって、利益が与えられたのはよくないことだった。これのあらわすこととは、当時の日本の知識人の少なからずは、将来の世代(つまりいまの時点)から見てまちがった行動をしたと見なされる危険性をとったということだ。

 国益を第一にしてよしとする愛国の歴史には、過去の日本の知識人の少なからずがおかしたあやまちと危険性が同じように含まれていると見てよいものだ。その点についてを、歴史からくみ取るようにするのはどうだろうか。過去の日本の知識人の少なからずがなしてしまったあやまちや危険性を、益となる失敗情報として知識化することがいる。それとは逆に、それを知識化することがないと、過去の日本の知識人の少なからずがおかしたあやまちと危険性を、いまにおいても同じようにくり返す愚をおかすことになりかねない。

 かつてといまを比べれば、いまのほうが情報が開かれている度合いがより高いから、恵まれているということが言えるだろう。かつては言論法で言論がしばられていて、情報の統制がきつかった。いまの世の中では、放送では放送法という言論法でしばられてしまっているのはあるが、それ以外ではそこまできつくしらばれているのではない。それなのにも関わらず、いまの日本の知識人や大手の報道機関は、だらしがないところがある。厳しく見ればそう言えるところがある。

 かつてよりもいまのほうが、情報が開かれているという点で恵まれているところがあるのだから、日本の知識人や大手の報道機関には、時の権力にかんたんに巻かれてしまわないようにもっと努めることをのぞみたい。かりに、かつての日本の知識人の少なからずのように、時の権力をよしとしたり愛国によったりして、そこから利益が与えられるのだとしても、そこにはあやまちや危険性が含まれることになるおそれがあることに気をつけることがいる。

 国がとんでもなくおかしな方向に行かないようにするためには、日本をよしとする愛国や時の政権をよしとするのだけではないようにしないとならない。それらだけをよしとして、あとは駄目なのだというのだと、排他のあり方だ。これだと国がとんでもなくおかしな方向に行ってしまいかねない。そこには抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)が欠けてしまっている。抑制と均衡をきかせるには、できるだけさまざまなことが言われるようにして、色々な表現が自由に行なわれることが許されることがいる。

 参照文献 『対談 戦争とこの国の一五〇年 作家たちが考えた「明治から平成」日本のかたち』保阪正康他 『図解雑学 失敗学』畑村洋太郎 『情報政治学講義』高瀬淳一 『歴史学ってなんだ?』小田中(おだなか)直樹 『新・現代マスコミ論のポイント』天野勝文 松岡新兒(しんじ) 植田康夫 編著 『経済ってそういうことだったのか会議』佐藤雅彦 竹中平蔵