西洋の個の強さがかいま見られる、環境活動家のグレタ・トゥーンベリ氏のうったえ

 国際連合の気候にかんする会合がアメリカのニューヨークで開かれた。そこで演説をしたのがスウェーデン人の一六歳の高校生であるグレタ・トゥーンベリ氏だ。トゥーンベリ氏は環境活動家として行動をしている。

 トゥーンベリ氏にたいして、子どもや未成年なのに国連の大舞台で演説をしているのは、裏で大人や組織が操っているのにちがいないという見かたがとられていた。

 一つには、トゥーンベリ氏は一六歳になっているので、たとえ未成年であるのだとしても、それそうおうの年齢に達していると見ることができる。未熟な子どもだと見なすのは必ずしも適してはいない。

 肝心なのはトゥーンベリ氏がどのような見識を持っているのかを見ることではないだろうか。そこを見ることがいるのであって、裏で大人や組織が操っているのだと見なすのは、その可能性がゼロではないにしても、まちがった独断や偏見になるおそれがある。証拠となる確かな事実がないのであれば、決めつけることはできない。一方的に決めつけるのは避けるようにしたい。

 トゥーンベリ氏の国連での演説は、感情や演技によるものだった。冷静で科学的なものではなかったという見かたがとられていた。大きな舞台だったのだから、言うことに熱が入って感情が高まるということはしばしばあるものだろう。感情だけによるのだとまずいが、感情が入ることはよくあることであって、演説においては人にものを伝えるために感情(パトス)と理屈(ロゴス)を用いることはよく行なわれるものだ。とりたててめずらしいことではない。

 科学的に見て行くことがいるということについては、そもそも大文字の科学による語りについて疑いの目を向けることができる。科学の技術によってうまく問題が片づくとか、技術の向上によってよりよいあり方になって行くとか、技術の向上を止めてはならないとかというのは、大文字の科学の語りだ。それにたいして絶対の信頼を寄せることは難しい。大文字ではなく小文字の語りにも目を向けて行かないとならない。科学すなわちよいものとかためるなるものとはいちがいには言うことはできそうになく、光かがやくおもてのところだけではなくて、その裏にある負や陰のところを見て行くことがいる。

 精神分析学者のジャック・ラカンは、科学(大学)の語りということを言っているという。科学の語りは客観のものだとされる。客観とされるものとは合わないものは切り捨てられてしまう。無いものだとされる。標準や常識だとされて、人々にとって抑圧としてはたらく。その語りによってとり落とされてしまうものに目を向けることがいる。

 参照文献 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『よくわかるコミュニケーション学 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』板場良久 池田理知子編著 『本当にわかる論理学』三浦俊彦