気候変動のような大きな問題は楽しく、かっこよく、セクシーであるべきだ。自由民主党の小泉進次郎環境相は、アメリカで開かれている国際連合の場においてそう言ったという。
環境相が言ったことについて、セクシーというのがとくに引っかかる言い方としてとり上げられている。セクシーという語にはかっこよいという意味あいもあるそうだが、そうであるにしても、言葉の選択がややおかしい印象を受ける。
気候変動や環境の問題については、環境相は、楽しくかっこよくセクシーであるべきだと言うのだが、それとはちがう見かたをとってみたい。どうあるべきかというよりも、どうあるべきではないかということで、まず一つには、大事な問題について、表面的なふわふわとしたことを政治家は言うべきではないのではないだろうか。内実が欠けていて、表面的な効果だけに走ったふわっとしたことをあまり言うべきではない。
異常気象や環境破壊に加担してしまっている側の一員だから、まったく無実である立ち場から言えるのではないのだけど、気候変動や環境の大きな問題については、どういった危機があるのかを、危機意識をもって現実主義として見て行かなければならない。
楽しくかっこよくてセクシーであって悪いというのではないし、そういうやり方もあってよいのはあるが、そうしたことを気にかけているゆとりやよゆうは果たしてあるのだろうか。かりに楽しくてかっこよくてセクシーなことを、ポジティブなことだと見なせるとすれば、ポジティブなことばかりを見ようとすることには弊害がある。ネガティブなことを見落としてしまう。ポジティブなことではなくて、見落としがちになってしまうネガティブなことをできるだけ意識して見て行こうとすることが大事なのではないだろうか。
予備校講師の林修氏は、やるべきこととやれることとやりたいことを分けて見る見かたを言っていた。それで言うと、やるべきことややれることは何かというのがまず見るべき点であって、どちらかと言えばどのようにやりたいかということに当たる、楽しくかっこよくセクシーというのは、重要さの度合いで言えばそれほど高いことだとは見なしづらい。
どういうことがやるべきことで、どういうことがやれることかというのがある。何をやるべきかというのがあって、それをどれだけやれるのかがある。やると言ってじっさいにはやらなかったり、やるべきことをやらなかったり、受けとめるべき声を受けとめていなかったり、というのではよいあり方ではない。まずはそれらをしっかりとやるようにして、不誠実ではないようにしたり、これまでの不誠実さを省みるようにしたりすることがいるのであって、それらを先決のこととしてやるようにすることがいることだろう。
外の自然と内の自然というのがある中で、これまでに人間は外の自然を壊しつづけてきた。それによって内の自然までもが壊されてしまっている。内の自然というのは人間の内面の精神である。唯幻論の岸田秀氏によると、動物とはちがって人間はもともと内なる本能が壊れているという説が言われているが、それに加えて、人間は外の自然を壊しつづけてしまっているために、人間の内の自然もまた壊れてしまい、生が空虚なものになる。生の意味が欠如する。それで虚無主義がおきるようになって、国家主義の強まりなどのまずい動きがおきているのがいなめない。
参照文献 『自分でできる情報探索』藤田節子 『啓蒙の弁証法』テオドール・アドルノ マックス・ホルクハイマー 徳永恂(まこと)訳 『唯幻論物語』岸田秀