法治国家と普遍の価値―厳しく言えば、いまの日本の国は、時の政権によって、非法治や特殊の価値である国家主義をとってしまっているのではないか

 日本は法治国家だ。韓国はそうではなくて人治国家だ。日本は文明的でよいが、韓国は非文明で駄目なのだ。識者はそう言っていた。

 かりに、日本がよくて韓国が駄目だというのなら、日本は普遍の価値をとっていて、韓国は特殊の価値をとっている、ということが言えるだろう。それで、日本はちゃんと普遍の価値をとっているのかどうかを見て行かないとならない。

 法治主義による法の支配というのは普遍の価値によるものだが、日本はそれがしっかりとできているのかといえば、そうとうに心もとないのではないだろうか。できていないところが少なくはない。

 日本の国がしっかりとしたあり方であると言えるためには、自分たちはこういう倫理観を持っているということを他にわかるように示さないとならない。それで、そこで示したことをじっさいにやらなければならない。

 日本の国が、自分たちの立ち場を中心にするのだと、国家主義になってしまい、特殊なあり方におちいる。それを防ぐには、国家主義におちいりすぎないようにして、自国と他国のあいだに太い分断線を強く引きすぎないようにしないとならない。

 法治主義による法の支配では、人々の平和的な生存権を守るようにすることがいる。それを守るには、日本の国の立ち場をよしとする人を温かくあつかい、ほうびを与えて、上の地位につけてとり立てて、逆にそうではない人には冷たくあつかう、といったえこひいきをしないように気をつけないとならない。

 日本の立ち場をよしとする人には温かくして、ほうびを与えて、そうではない人は冷たくあつかうというのだと、国家主義による賞罰(サンクション)のものさしを当てはめていることになる。これは戦前や戦時中に見られたものさしで、国民を一般の人と非国民とに分けたものだ。このものさしは戦争につながる危なさがある。

 日本の立ち場をよしとしようが、そうしないのだろうが、どちらも分けへだてなくあつかって、国家主義から見てある人には利得を与えて、ある人には利得を与えない、というのではないようにしたい。そういう国家主義による賞罰のものさしをとらないようにして、人々や報道機関が、国家からの呼びかけにかんたんに応じてなびいてしまわないようにする。

 法治主義による法の支配では、人々や報道機関が、国家からの呼びかけにかんたんに応じてしまわないような、自律性(オートノミー)があることが大切なのだ。自律性を持っていて、他律性(ヘテロノミー)にはよらないようにする。そういうあり方ができているのかといえば、いまの日本はそれができているのだとは言いづらい。

 日本では、既成事実というのがとても重みを持ちがちで、そうなっているのだからとか、これまでのしきたりや慣習でそう決まったからということで、それを受け入れる他律性によることがおきがちだ。他律性である、空気を読んだり和の拘束でしばったり忖度(そんたく)をしたりといった同調の圧力がおきる。

 参照文献 『警察はなぜあるのか 行政機関と私たち』原野翹(あきら) 『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』松木武彦 「ナショナリズムカニバリズム」(「現代思想」一九九一年二月号)今村仁司現代思想を読む事典』今村仁司編 『対談 戦争とこの国の一五〇年 作家たちが考えた「明治から平成」日本のかたち』保阪正康