日本は正しく、韓国はまちがっているという、日本における固定化した問いの構造―一つの正解という幻想

  なぜ、日本と韓国の関係がこんなにこじれてきたか。それはすべて韓国に責任がある。自由民主党菅義偉官房長官はテレビ番組の中でそう言っていた。

 すべてが韓国に責任があるというのは言いすぎではないだろうか。これは割り切りすぎたことを言っていることになる。じっさいの現実というのは、割り切れないことが少なくはない。一か〇かや白か黒かでかんたんには言えないことが多いのだ。

 目的を優先するようにしてみてはどうだろうか。目的というのを、かりに日本の国を少しでもよくするということにできるとすると、そのためには韓国の言うことを日本の国は受けとめるべきだ。その逆に、日本の国を少しでもよくするという目的などどうでもよいのだというのであれば、韓国の言うことを無視しつづければよいだろう。

 過去といまと未来というふうに、時間の幅を広くとってみれば、いまの時点における日本の時の政権が、長期の視点において日本の国のためになることをしているという見こみは低い。いまの時点における日本のときの政権が言っていることややっていることは、長期の視点においては日本の国の利益になっていないおそれがある。なので、いまの時点における日本の時の政権が言うことややることは、そこまで無条件で重んじなければならないことだとまでは言えるものではない。

 韓国の言ってくることは、日本の国の利益を損なう。はたしてそう言えるのだろうか。それは必ずしも言うことはできないことである。長期の視点において、いまの時点における日本の時の政権が、日本の国のためになることをするというのは、まちがいがないとまでは言えないことだ。それはつまり、日本におけるいまの時の政権が言うことややることは、絶対的に正しいとまでは言えないことを示す。

 たとえば、イギリスで行なわれた、欧州連合を離脱するかどうかを決める直接投票の結果がある。これは、イギリスの国民が自分たちで決めたことだが、その結果というのは、必ずしもイギリスの国民の利益になったとまでは言い切れないものだろう。かえってあとに引きずるしこりが残ってしまっているというのがある。

 日本のいまの時の政権というのは、日本のいまの国民とぴったりと合っているとは言えないものだ。時の政権は国民そのものではないのだから、国民にとっては他者だということもできる。時の政権が言うことややることは、他者がそうしていることだとも見なせるので、国民そのものからは距離がある。時の政権と、他国である韓国とは、距離の程度のちがいだということもできるだろう。

 日本の時の政権のほうが、他国である韓国よりは、距離は近いことになるが、距離が近いからといって正しいことを言ったりやったりするとは限らない。かえって距離が近いからこそわからないことがあるはずだし、まちがってしまうことがおきる。

 日本と韓国との関係が悪化しているのは、日本の時の政権が、国民とぴったりと合っているのではないのにも関わらず、そう見せかけて、その国民とのあいだの距離の近さによってかえってひずみやゆがみが起きてしまっているのがあるのではないだろうか。そのひずみやゆがみは、国民との距離の近さからもたらされているところが少なからずある。それで、韓国についてを悪く見なすという、政治の外交ではできるだけやってはいけないことである、危険な冒険主義につっ走ってしまっているようだ。

 参照文献 『〈聞く力〉を鍛える』伊藤進 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『アルチュセール全哲学』今村仁司