夢を見るのや観念論と現実主義という二つのちがい―絶対化(大きな物語)の時代と相対化(小さな物語)の時代

 夢を見るのや観念論によるのと、現実主義とがある。その二つが対立しているのがいまの時代だ。それでその二つがそれぞれ D(ドリーム)と R(リアリズム)で、その D と R とによって戦争になっているということが言われていた。

 はたして、夢を見るのや観念論と、現実主義とを、そんなにはっきりとかんたんに分けてしまえるものだろうか。

 夢を見るのをふくめた観念論と現実主義とは、それぞれが箱であるとすると、その箱のあいだの分類線は揺らいでいるのだというのがある。観念論と現実主義のどちらに当たるのかは、それほどはっきりとしたこととは言いがたく、それぞれの箱の中に入れられるものというよりは、程度のちがいにすぎない。

 人間が生きる空間は、事実空間というよりも意味空間だ。事実空間に意味づけや解釈をすることによって生きているのだ。その意味空間の中において、観念論とか現実主義とかと言っているのだから、その空間の中での意味づけや解釈のちがいがおきていることになる。

 事実にたいして、何らかの意味づけや解釈をすることになるわけだが、それがまちがったことになるときがあるから、そこには気をつけたい。かりに、何々であるというのが事実であるとして、そこから、何々であるべきだ、というのを導いてしまうのは、事実から価値を導いているのを示す。これは現実主義というよりも自然主義の誤びゅうだ。たとえば、日本人だからよいとか、韓国人だから悪いとかといったものだ。

 いま生きている人間は、多かれ少なかれ観念論におちいっていて、夢を見ているのだということは、言えないことではない。人間というのはこれから先のことを完全に見通すことはできないから、それをもってして、活火山の火口の上で踊っているのが、すなわち人間が生きていることなのだ、と言われるのがある。活火山の火口の上というとても危ないところにいるのにも関わらず、それを知らずにその上で踊っているのが人間だというわけだ。

 いまを生きている人間がまったく夢を見ていないということは言えそうにない。これが現実だとしているものが、じつは夢なのだというおそれはないことではないものであって、東洋では胡蝶(こちょう)の夢ということが言われている。人間が生きているのは、じつは蝶が見ている夢であるのかもしれない。

 西洋によるとらえ方であれば、夢や観念と現実というのがはっきりと分けられるかもしれない。それとはちがい東洋では虚実皮膜のあいだというのが言われている。虚と実とはそこまではっきりと分けられるものではなくて、その二つのあいだのあわいに現実があるということだ。

 言葉というのは何かをあらわすのとともに何かを隠すことにもなるから、神話(ミュトス)の働きを持つことがある。神話作用によって、ものごとがあたかも自然なことであるかのような自然化がおきる。そうすると陶酔することになる。この陶酔から覚醒して目ざめることがあるとよいことだろう。そのためには、観念だから駄目だとか、現実主義だからよいとかとするのではなくて、現実であるとか常識(当たり前)であるとかと言われることであっても、それをうのみにはしないで、疑うことがあると役に立つ。

 抽象なら抽象だけとか、具体なら具体だけというふうにならないようにして、そのあいだのつり合いをとることができればよい。抽象と具象とのあいだのつり合いをとる。言葉というのはものごとを抽象化する働きがあるが、それが働くことによって具体のことが捨象されてしまう。現実にある具体のことから離れてしまうことになる。それを避けるためには、何かを言うことでものごとを抽象化や単純化してしまっていることを忘れないようにしたい。それについて少しくらいは意識することがあると、少しは歯止めになる。

 現実は現実だというのではなくて、それは多かれ少なかれ擬制(フィクション)によって動いているのがある。社会というのはそれぞれの人が役割をになってなりたっているが、この役割(ロール)というのは、そういう役割を持っているというふうに認め合っているだけであって、本当にそうだというのとはややちがう。たとえば、国には総理大臣というのがいるが、これはみんながそう認め合っているだけであって、じっさいにはただの人である。それはいわば虚構ということだろう。このさいの虚構というのは、直接ではなく間接(代理)によるものであることをさす。

 動きのちがいで言うと、静と動というのがある。事実にたいして意味づけや解釈をすることによって、静の真実というのができ上がるとして、そのいっぽうで現実はたえず動きつづけて行くのがある。現実はたえず動きつづけて行くのでとどまっているのではないから、たえず変わって行く。なので静の真実がいつまでもずっと引きつづいてあるというよりは動によるということが言えるだろう。これは、正と反と合がくり返される弁証法によるとらえ方だ。現実や社会には、正と反という矛盾(社会的ジレンマ)があるという見かたがなりたつ。

 静と動では、静はまちがっていて動は正しいということは必ずしも言えなくて、かりに静は保守で動は革新であるとすると、保守はまちがっていて革新は正しいというのは当てはまりそうにない。それは個別のことで見て行くことがいるものだ。静と動とをひき比べて見てみると、何でもかんでも変わって行くのがよいとは言えないし、何でもかんでも変えて行くのがよいというのではないから、そういう点においては、こうあるべきだという規範としての静の保守のあり方が少なからぬ意味あいを持つことは少なくはない。

 参照文献 『空間と人間 文明と生活の底にあるもの』中埜肇(なかのはじむ) 『業柱抱き(ごうばしらだき)』車谷長吉(くるまたにちょうきつ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』苅谷剛彦(かりやたけひこ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『記号論』吉田夏彦 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり)