日本死ねと、韓国への排外の発言とは、同じものだとは見なしづらい―二重基準だとは言えそうにない

 日本死ね、と言うのは許されるのに、韓国への批判を言うのはとがめられる。これは二重基準(ダブル・スタンダード)にほかならない。そういうことが言われていた。

 それについては、一つには、日本死ねと言うのと、韓国へのとくに憎悪表現による批判とは、同じものではないという反論がなりたつ。同じものではないので、同じあつかいをしなくてもよいから、二重基準とは言えないわけだ。

 もう一つには、日本死ねと言うのと、韓国にたいする憎悪表現による批判が同じだというのなら、日本死ねと言うのに賛否の両方の声があったのだから、韓国にたいする憎悪表現による批判にもまた賛否の両方の声があってよいことだろう。

 同じものには同じあつかいをするのがふさわしいとすると、日本死ねというのがもし駄目なのなら、韓国にたいする憎悪表現による批判も駄目なのだし、韓国にたいする憎悪表現による批判がよしとされるのなら、日本死ねというのもまたよいはずである。そうすれば、少なくとも二重基準にはならない。

 二重基準ということでは、個別の発言にたいして表現の自由を当てはめるさいにそうなりがちなのがある。こちらでは表現の自由を言っておいて、別のところでは表現の自由を認めない、というふうになっていることがある。同じものには同じあつかいをするべきだという公平の原則に照らし合わせてみると問題がある。

 表現の自由というさいに、その自由というのは、できるだけ広いほうがのぞましいのはあるものの、自由を行使したさいに、誰かの権利を侵害することがおきるのには気をつけることがいる。それにくわえて、表現の自由を重んじるのは、絶対の自由(無制限の自由)をとることと同じ意味ではない。現実にも、どこで誰が何を言ってもよいというふうにはなっていない。制限が必要なときにはそれが許容されているのだ。

 表現の自由を一部で制限することになったとしても、表現の自由を尊重することになるのがあるのであって、一か〇かや白か黒かということとは言えそうにない。そこに気をつけないとならないし、その中間の灰色の領域にまつわる難しさがある。

 人それぞれで色々な見なし方があるだろうけど、個人としては、日本死ねは白(言ってよいこと)だが、韓国への行きすぎた憎悪表現による批判は黒(言うのが駄目なこと)だと見なしたい。

 あくまでも個人の見かたにとどまってしまうものではあるが、日本死ねというのは、その本意として、日本の悪いところが改まってほしい(よく変わってほしい)という願いがいくらかはこめられていると見てとれる。本当に日本に死んでほしいわけではない。

 日本のいまある悪いところをさし示して、それが改まることで、一人ではなく多くの人の権利が満たされることになれば、それは多くの人の利益になることだし、ひいては日本の全体の利益が増すことにつながる。

 韓国にたいする行きすぎた憎悪表現による批判では、韓国に悪いところがあるとして、それが改まって韓国がよくなってほしいという可能性へのおもんばかりはとられていないのではないだろうか。批判というのは理想としては、相手が変えることができるところにたいして、こうすれば変えられるのだということで、その可能性へのおもんばかりをとることがのぞましい。そうすれば公共性に気を配ることになる。

 必ずしもいつもきちんとできることではないかもしれないが、それだけに、(受け手にたいする)派手な受けよりも、地味ではあるが抑制をきかせることのほうがより大事なのだ。車の運転でいうと、アクセルをきかせて加速させるよりも、ブレーキをきかせるべきときにきかせて減速させるほうが技術として大事だし難しい。

 参照文献 『論理パラドクス 論証力を磨く九九問』三浦俊彦 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『その先の正義論 宇佐美教授の白熱教室』宇佐美誠 『危険な文章講座』山崎浩一