日本と韓国の入れ替え(取り替え)可能性―相手にたいする負の特徴がこちらにも(こそ)当てはまる

 韓国はもういらない。嫌韓ではなく、もはや断韓だ。週刊誌ではそうした見出しがかかげられていた。韓国人は感情的になることが多いと言っている。

 韓国はこうだとか、韓国人はこうだとかということが、週刊誌では言われているが、それはそっくりそのまま日本人にもまた当てはまることなのではないだろうか。

 韓国や韓国人というのを日本や日本人というのに置き換えれば、そのまま通用するのだ。韓国や韓国人について否定で言われていることが、そのまま日本や日本人の否定の特徴として当てはまる。韓国や韓国人はこうだというふうに否定の特徴を言うと、それがそのままどこも欠けることなく日本や日本人にはね返って来る。

 韓国がこうだというのや、日本はこうだというのがあるとして、そこで無視することができないのは、韓国や日本について、わからないことが多いということだ。わかったつもりになっているのだとしても、それはわかっていることを意味しない。

 韓国や日本には、わからないところが多いので、そこには謎がある。韓国や日本にそれぞれの決まった本質があるというよりも、その本質に先立つものである実存となっているのだ。実存主義からすればそう見なせる。

 本質として見れば、韓国はこうだとか日本はこうだというふうに言えるが、それはあくまでもその一部だけを見て言っているおそれがある。一斑(いっぱん)を見て全豹(ぜんぴょう)を卜(ぼく)すと言われるが、一斑だけによるのでは、全豹を見ていることにはならない。一斑と全豹のあいだには、解釈学による循環構造があって、一斑を見れば全豹が切り捨てられ、全豹を見れば一斑が切り捨てられてしまう。ほんとうのところはわからないのを示している。

 参照文献 『にほん語観察ノート』井上ひさし 『思考のレッスン』丸谷才一 『科学哲学者 柏木達彦の多忙な夏 科学ってホントはすっごくソフトなんだ、の巻』冨田恭彦(とみだやすひこ) 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 「安部公房との対話」(『安部公房全集 第二十四巻』)