日本と韓国とのぶつかり合いと友敵理論―味方と敵の二元論と、味方と敵のしたて上げ

 韓国の味方をするのか。日本の国会議員に向けて、そういう声が投げかけられていた。日本の国会議員であるにも関わらず、日本にとって他国に当たる韓国の味方をするつもりなのか、ということだ。

 韓国の味方をするのか、それとも日本の味方をするのか、というのは、単純な二元論であるし、味方と敵とを分ける友敵理論だ。味方かもしくは敵かというふうに友敵理論によって二つに分けてしまうのは危ない。その二つはあくまでも関係によってなりたつことに目を向けたい。

 韓国か日本かという二つのものをちがうものに置き換えてみると、反対勢力と日本の国内の政治権力ということになる。反対勢力の味方をするのか、それとも日本の国内の政治権力の味方をするのか、ということだ。

 民主主義には反対勢力となるものが欠かせない。日本の国内の政治権力が言うことややることが、完ぺきに正しいということはないのであって、人間がやることであるからにはまちがいを避けられない。

 絶対に韓国がまちがっているとか、絶対に日本が正しいとかというのは言えないのであって、そこは絶対論の文脈ではなくて相対論の文脈で見るべきだろう。民主主義は相対主義の表現だと言われている。そうであることから、反対勢力(たとえば国外では韓国)のほうが正しいこともありえるし、日本の国内の政治権力がまちがっていることもありえるのだ。敵となるものがまちがっているとは限らないし、味方となるものが正しいとは限らない。

 韓国が日本のことを批判してくるということは、日本の国内の政治権力にたいして厳しい目を向けているということになる。日本の国内の政治権力にたいして甘いことが日本の味方となることで、厳しい目を向けるのが日本の敵となることだと言う分け方は、適したものだということができるのだろうか。

 日本の味方をするのは、日本の国内の政治権力に甘くすることになって、それをいたずらに権威化や教条化することにつながる。日本の権力者が言うことをうのみにすることになる。それがおきていることが、日本の大手の報道機関を見ていると察せられるのだ。

 敵は味方の内にあり、なんていうことが言われる。これの意味するところとは、たとえ日本の味方であるからといって、日本の国のためになるとは限らないということではないだろうか。そして、日本の敵だとされるからといって、日本の国のためにならないとは限らないのだ。

 敵と味方とは関係によっているのであって、敵がいなければ味方もまた無い。韓国は日本にとっての敵国だというようなことで、あまり敵ということをしたて上げすぎると、見逃してしまうことがおきてくる。日本をよしとするのが日本の味方だということであるとしても、その日本の国や日本の国内の政治権力がもつ否定の暗部を明らかにすることがいる。その否定の暗部を隠したりもみ消したりするために、敵となるものをつくり出して悪玉化するのはよくあることだ。

 参照文献 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『ネット時代の反論術』仲正昌樹(なかまさまさき) 『なぜ「話」は通じないのか コミュニケーションの不自由論』仲正昌樹 『究極の思考術』木山泰嗣(ひろつぐ) 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香現代思想を読む事典』今村仁司