香港でのデモをテロと言う、国家(中国)による言論操作

 香港では、デモがつづいている。逃亡犯を引きわたす条例に反対するデモだとされている。このデモについて中国の当局は、テロであるというふうに言っている。中国の当局が香港のデモについてテロであるというふうに言うのは、言論操作である。

 テロというのはもともとは、国家にたいして政治の犯罪をおかすことをさすのではなくて、国家が国民にたいして恐怖によって支配することをさすものだという。中国の当局が香港のデモにたいしてテロだというのは、じっさいには主体が逆なのだ。

 テロつまり悪い、と言い切ることはできそうにない。紛争ということで見てみると、それには主体と手段と争点がある。争い合う主体があって、使われる手段があって、争点がある。それゆえに、紛争を何とかするためには、争点をとり上げないとならない。たんにテロがおきているということで、国家による力を用いた支配を強めるのでは、争点の解決にはつながらない。

 香港でのデモをテロと言ってそれを取り締まろうとするのではなくて、それが国家における犯罪と言えるのであれば、どういう行為が、どういう反応をもたらしているのかというところを見ることがいる。犯罪というのは、行為と反応の統一体として成り立っているものだという。香港でのデモは、抗議の声をあげているということに主となるところがあるのだから、その行為そのものは、それをもってして悪いということはできそうにない。

 力による支配にならないようにして、中国の国家は力によって香港のデモを押さえつけないようにすることがいるだろう。中国にかぎらず日本の国家にも同じことが言えるものだが、力による支配ではなく法による支配を行なうことがいる。おきている紛争を何とかするために、少数者の言いぶんを国家は十分に受けとめることがいる。

 デモのことをテロだと言っているのはものごとが逆であって、テロをすることに自分で気をつけないとならないのはおもに国家のほうだ。国家は、国家装置である軍隊や警察を持ち、暴力を独占しているからだ。独占して持っている暴力をちらつかせておどすことによって国家は権力による支配を行なう。

 参照文献 『戦争の克服』阿部浩己(こうき) 鵜飼哲(うかいさとし) 森巣博(もりすひろし) 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『政治的殺人 テロリズムの周辺』長尾龍一現代思想を読む事典』今村仁司