表現の自由と、形(物語)の絶対性と相対性―物と形と力

 芸術のもよおしで、従軍慰安婦を象徴する作品を展示した。これにたいして日本の中で批判の声がおこって、作品の展示やもよおしができなくなった。

 この芸術のもよおしを企画として見ると、創造性はあったと言える(破壊性と言ってもよいかもしれない)。表現の不自由展ということで、表現の自由を主題にする中で、従軍慰安婦の作品をとり上げたことには、表現の許容性や歴史についての問題意識があることがうかがえる。

 企画の現実性という点については問題があったかもしれない。現実として無難なのは、もよおしの内容を保守的なものにすることだ。そうすれば当たりさわりがないものになるので、批判がおきづらい。攻めた内容にすると、それだけ危険性が高くなる。

 従軍慰安婦を象徴する作品は、戦争における負のできごとを、思想として形象化したものだ。物体として見ると、この作品は物(質料)だ。この作品があらわしている思想の内容は形(形相)だ。この形(形相)の点で、韓国と日本とでは食いちがいがあるのだ。受けとる意味がちがう。

 受けとる意味というのは、一つの観点ということである。観点のちがいがある中で、日本でよしとされる愛国の形には、この従軍慰安婦の作品の形は受け入れられないものとなる。それで批判の声がおきることになる。

 日本の国を愛する歴史という形において、そこから排除されることになるのが、従軍慰安婦の作品なのだ。従軍慰安婦の作品とは、日本の愛国の歴史にとって、否定の契機となるものなので、それがあってはまずいから、隠ぺいや抹消が行なわれることになる。日本の愛国の歴史という静止した形をつき崩す力となるものが、従軍慰安婦の作品だ。

 日本と韓国とのあいだで、お互いの形と形がぶつかり合う。そうした図式があることがうかがえる。これを何とかするためには、日本においては、日本の愛国の歴史という形を、きちんと保とうとするのではなくて、その形を力によってずらすことが益になる。

 日本の愛国の歴史という形を、きちんと保たせようとすることは、その形の純粋さという修辞(レトリック)におちいることになる危なさがある。日本の愛国という形を絶対化するのではなくて、それを力によってずらすことによって相対化することができれば無難だ。

 日本の愛国という形を相対化するためには、日本の愛国という虚偽意識によって排除してしまっている従軍慰安婦の作品に目を向けるようにすることが役にたつ。日本の愛国という形にとって、従軍慰安婦の作品は、二面性があるのだ。日本の愛国という形の秩序を崩してしまうことにはなるが、その形がもつ欺まん性を浮きぼりにすることができる。

 日本の愛国という形にとって、従軍慰安婦の作品は、呪われた部分に当たるものだということができるのではないだろうか。その呪われた部分の暗部に向き合わないでいることで、日本の愛国という形は、自壊することになるおそれがある。

 先の大戦において、日本の愛国という形は、神風神話や神州日本という神話の物語で通用していた。それが日本の全体に通用していたのが、戦争に負けて敗戦することによって、形がもたらす酔いから覚めることになった。敗戦のすぐあとには、形がもたらす酔いから覚めることになって、一時的ではあるにせよ理性による反省ができた。それで、同じあやまちはくり返さないということで、一時的な理性による反省が形象化されたり(憲法において)明文化されたりした。

 いまは虚無主義となっていて、よるべとなるものやよすがが見あたらず、先の大戦で見られたような、形の神話による酔いがとられてきているようなふしがある。悪く酔うのや深く酔うのを避けるには、形を力によってずらすことが効果的だ。それで形を絶対化するのを防いで相対化することにして、大きな物語ではなく小さな物語にすると危険性は少ない。

 参照文献 『こんなに面白い西洋哲学[思想と歴史]』竹田純郎(たけだすみお)監修 大城信哉(おおしろしんや) 『思想の星座』今村仁司現代思想を読む事典』今村仁司編 『企画力 無から有を生む本』多湖輝(たごあきら)