日本と韓国や、アメリカと中国とのぶつかり合いと、西洋の中世におけるフェーデ(fehde)―自己保存による敵対関係

 日本と韓国とのあいだで、経済のやり取りを優遇することを取りやめることが行なわれている。日本と韓国は、お互いがお互いを非難し合っている。一方がこれまで優遇していたのを取り止めれば、もう一方がその対抗として同じように優遇を取り止めるといったことになっている。

 アメリカと中国とのあいだでも、経済のやり取りで争いが行なわれている。これがおきているのに加えて、イギリスが欧州連合を離脱する動きがある。世界は超不確実性の時代に入った、という見かたがとられている(『超不確実性時代の WTOナショナリズムの台頭と WTO の危機』深作喜一郎)。

 日本と韓国や、アメリカと中国とのあいだで、争いがおきているが、これは部族どうしのあいだにおける争いのフェーデになぞらえられるところがあるのではないか。西洋の中世に一般的に行なわれていたのがフェーデ(fehde)であるといい、これはドイツ語である。

 部族どうしがこぜり合いをして、報復をし合う。それには終わりがない。不毛である。いわば、自然状態(戦争状態)だ。社会状態ではない。

 日本と韓国や、アメリカと中国は、それぞれの自己保存にかまけていて、自己愛に酔っているところがある。それでお互いに敵対し合うことになるのだ。

 それぞれが敵対し合う中で、けんか両成敗だとか、どっちもどっちだと言ってしまうと、アメリカと中国においては当てはまるが、日本と韓国においてはそれとはちがう見かたもいる。日本と韓国においては、過去の歴史において、日本が加害者で韓国が被害者という図式があるのはぬぐい切れそうにない。

 西洋の中世における部族どうしの争いであるフェーデのような紛争を避けるには、日本と韓国や、アメリカと中国のそれぞれが、それぞれの自己保存だけにかまけないようにすることがいる。そのままだと自然状態から脱することは難しい。そこから脱するためには、敵対関係を和らげるようにすることがいる。

 自国の単一の視点だけではなくて、他の視点を持つようにして、複数の視点を介するようにすることによって、自己の視点を相対化することができればのぞましい。自分の視点ではない他の視点を拒絶するのではなくて、許容することで視点を複数化することが有益だ。

 参照文献 『罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『現代思想を読む事典』今村仁司