生活が苦しいのは、個人が悪いのか、それとも社会が悪いのか―個人的努力と社会的努力

 三〇代の後半の人が、生活に困っている。きちんと生活して行けるだけの仕事につけない。仕事がきついものしかない。生活ができるだけの十分な賃金がもらえない。安い賃金の仕事は、仕事の内容が楽なのかといえば、そうではない。それはそれできついのだ。

 他のブログでそうした内容があった。それにたいして、厳しい声が寄せられていた。言いわけにすぎないとか、怠けているとかといった声が投げかけられていた。この厳しい声は、自己責任論によるものだと言えるだろう。

 なぜ三〇代の後半の人は、生活が苦しいのか。その要因としては、生活が困窮する人を生む、日本の社会における差別や偏見があるからだということが言えるのではないだろうか。日本の社会において、自己責任論といったような、差別や偏見の価値観があることで、生活に困窮する人が生まれるのだ。

 生活に困窮したり、貧困になったりするのをうながす見なし方とは、いわばサディズムだ。それで、そのサディズムがとられることで、生活に困窮したり貧困になったりというサディズムの被害がおきる。ふさわしい当てはめではないかもしれないが、ここで言いたいのは、サディズムサディズムによる被害を生んでしまっているという図式だ。

 サディズムを止めることがいるのであって、それをするべきではないのにも関わらず、それをしていることが少なくはないのだと言いたい。生活の困窮や貧困を助けるのは、まずもって、サディズムをやらないことがいるが、助ける役をになう立ち場にある政治家や役人が、サディズムに加担している。それに気がついていない。

 生活に困窮して、貧困になる。これはたんにお金だけのことではない。お金だけではなくて、人とのつながりが分断されているのだ。つながりが分断されているのは、経済至上主義になっているからだ。

 文脈を個人にではなくて、社会に置いて見られる。そうすると、個人が悪いというのではなくて、社会が悪いというふうに見られる。社会が個人を、社会の中から追い出しているのだ。これは社会的排除である。社会的包摂ができていないのだ。

 先進国である日本では、誰にでもわかるような貧困ではなくて、その社会において相対として決まる貧困におちいることになる。相対貧困だ。その社会において、人間として恥ずかしくない最低限の生活すら送れない目におちいる。相対的はく奪である。これは相対貧困と同じことをあらわす。

 自己責任論においては、誰しもが同じ条件において出発しているのでないと、個人についてよいとか悪いとかとは言えそうにない。じっさいには、誰しもが同じ条件において出発してはいない。人それぞれで、置かれている状況がぜんぜんちがうし、自由の幅(ケイパビリティ)がぜんぜんちがう。

 うまく行っている人は、たまたま自由の幅が大きかったにすぎない。うまく行っていない人は、たまたま自由の幅が小さかったのだ。そのちがいにすぎないのだから、自由の幅が人によってちがってしまっていることを問題にするべきである。

 自由の幅が大きければ、すべり台ですべり落ちる傾斜はゆるやかだ。自由の幅が小さければ、その傾斜はとても急だ。すぐに下に落っこちてしまう。安全網はろくに張られていない。それで安心していろというのが無理な話だ。

 うまく行っていないのであれば、自分で何とかがんばればよい。がんばって上がって行けばよい。そういう声はあるだろう。個人のがんばりによって何とかすることを求めるのは、そのがんばりを評価するものさしとして、数量による市場の交換価値がとられる。これは公正なものとは言いがたい。それで社会の中に格差が生まれるのだ。

 格差は分断(ディバイド)となる。分断することによって、線が引かれて、線が引かれた向こう側への理解が届きづらくなる。理解が届きづらい中で、自己責任論による合理化がとられることになる。分断による線引きがなくなるのではなくて、それがとられつづける。格差がそのままになって、それをよしとすることをあらわす。

 どこの地域やどの時代にもそれとわかるような絶対貧困ではなくて、先進国においてはその中において見ることがいる相対貧困がおきる。これは、見えづらい貧困とされていて、貧困がそのつど再発見されなければならないとされる。

 さまざまなところにおいて、社会の中のまずいところを発見することに力が注がれているのがあるが、それにたいして、穴が空いているのをふさぐおおいがかけられて、あたかも穴がないかのようだったり、穴が見えないようになっていたりする。発見(discover)にたいして、おおい(cover)がかけられて、穴が見えなくなる。遮(しゃ)へい物で遮へいされる。それで、日本の社会はいまうまく行っているのですよと言われて、そこに十分な説得力を見いだすことができるだろうか。そこに少しの欺まんもないということができるだろうか。

 参照文献 『弱者の居場所がない社会 貧困・格差と社会的包摂』阿部彩(あべあや) 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編 『社会福祉とは何か』大久保秀子 一番ヶ瀬(いちばんがせ)康子監修 『大貧困社会』駒村康平(こまむらこうへい) 『世界「比較貧困学」入門 日本はほんとうに恵まれているのか』石井光太(こうた) 『反貧困 「すべり台社会」からの脱出』湯浅誠 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司