表現の自由と、従軍慰安婦を象徴する芸術の作品

 芸術作品を発表するもよおしが愛知県で行なわれた。表現の自由についての主題がとり上げられる中で、従軍慰安婦のことをあつかった作品が展示された。

 従軍慰安婦についての作品を展示したことで、日本の中で賛否がまきおこった。否の中には、いますぐこの作品を撤去しなければガソリンを持ってお邪魔するなどといった脅迫が主催者に送られたという。この脅迫をした人は特定されて警察に逮捕されたとのことだ。

 従軍慰安婦についての作品には、抗議の声が少なからずおきたという。この芸術のもよおしには税金が使われていたようで、公の政治がからんでいる。その地域の政治家は、従軍慰安婦の作品はもよおしにはふさわしくないことだと言い、戦争において従軍慰安婦の強制はなかっただとか、従軍慰安婦そのものは無かっただとかという歴史の見かたを示したそうだ。

 この芸術のもよおしでは、表現の自由という主題がとり上げられる中で、従軍慰安婦についての作品が展示されたところ、それにたいして抗議の声がおきて、作品の展示やもよおしそのものがさまたげを受けることになった。このいきさつそのものが、いまの日本において、表現の自由がせばまってしまっていることを示していると受けとれる。自由というよりも、(日本の国をよしとする)道がとられていて、その道に外れるものや反するものは禁忌となるようなふうだ。

 道というのは、何々道ということだが、これはそうあるべき道だということだ。そうであるべき道ということだ。当為(ゾルレン)と言えるものである。それとはちがい、実在(ザイン)のところを見ないとならない。実在においては、色々なものがある。ある対象について、たった一つの面から見るのではなくて、色々な面を見られるのがあるから、そうしたほうが対象をよく知ることに役だつ。

 先手を打つという形で、もよおしでは、表現の自由をとり上げる中で、従軍慰安婦についての作品が展示されたが、それが表現の自由において結果として許されないことになったのだ。表現の自由とはいっても、何でもかんでも、状況を無視してどんなことでも言ったりあらわしたりしてもよい、というのではないのはある。

 芸術というのは、虚によって実を示すというのがあるはずであって、従軍慰安婦についての作品が虚だから駄目だというのは納得できづらい。ある芸術の作品が虚だから許容できないというのなら、改めて見れば、すべての芸術の作品が虚だということもできないことではない。また、歴史というのもまた虚だということができる。歴史というのは物語なのだから、それは虚ということだととらえられる。

 歴史というのは物語であって、物語というのは単一ではなくて複数あるほうがよい。単数の物語にしか接しないのではなくて、複数の質の異なる物語に接することができることに意味があるのだ。

 著述家の池田晶子(あきこ)氏は、『知ることより考えること』において、こう言っている。色々な物語を聞くという経験は、人の批判精神を鍛えることになる。ただ一つの物語を正しいとするのではなくて、開かれた中で色々な物語に触れることによって、物語を批判として受けとれるようになれれば、益になるということができる。

 芸術のもよおしにおいて、従軍慰安婦についての作品が展示されたことは、ある立ち場による歴史の物語によったものではある。それは許容されてよいものだったのではないだろうか。それが許容されることによって、(拒絶である)排他ではなく、(消極の受け入れである)包括というのでもなく、多元のあり方がとれるきっかけになる。

 戦争において、従軍慰安婦の強制はなかったとか、従軍慰安婦は無かったというのは、絶対にそうだとは言い切れないものではないだろうか。無かったということの証明となる証拠を示すことは難しい。そこで、あったという仮説をとって、それを否定してみるという間接の証明を試みるという形になる。あったという仮説を完ぺきに否定することはできづらいのであって、あったという仮説が(数々の状況証拠によって)それなりになりたつのなら、それを受け入れることがふさわしい。

 たんに日本のいち政治家にすぎないのにも関わらず、なぜ歴史の真実を知っているかのようなことを言うのだろうか。歴史のほんとうのところの真実は、誰にもわからないことではないだろうか。誰にも本当の真実ははっきりとはわからないのだから、色々な見かたがあってよいだろうし、意見が割れないくらいによほど確実だというのでないのなら、複数の物語や文脈がなりたってしかるべきだろう。

 歴史において、戦争の中で排除や暴力や抑圧を受けたことでつくられた負の痕跡が残る。その負の痕跡を、無かったことにするのは、その負の痕跡が無いこととは同じとは言えそうにない。無かったことにするのは、負の痕跡をわきにおいやることになるが、そうではなくて、負の痕跡を光らせるようにすることが、負の歴史という荷を負ういまを生きる者のつとめであって、それをなそうとする者の邪魔をすることは、よいことだとは言えそうにない。

 拒絶である排他ではなく、消極の受け入れである包括でもなく、多元になるようにできればのぞましい。ちがう立ち場がぶつかり合ってしまうのはあるが、多元による対話をなすことによって、歴史の真実の近似値に少しでもいたることが見こめるようになる。対話をせず、単一の物語をもってしてこと足れりとするのなら、それは独話であって、歴史の真実は知りようがないことになるだろう。

 立ち場のちがうものがあってよいのだと認めるのは、自分がよしとする歴史観(歴史像)にそぐわないことを認めることだから、それに耐えることがいるのはある。わかり合いがたいという通約(共約)不可能性や、決めがたいという二律背反にいささかなりとも耐えることがいる。そのかわりに、その果実のようなこととして、歴史の真実の近似値に少しでもいたれるのだ、と見なすのはどうだろうか。

 参照文献 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『本当にわかる論理学』三浦俊彦現代思想を読む事典』今村仁司編 『靖国史観』小島毅(つよし) 『知ることより考えること』池田晶子