首相の発言の立ち場(前提条件や価値観)と、それ以外の立ち場

 大阪城を復元したときに、大きなミスをした。エレベーターをつけたことだ。首相は G20 においてそう言った。この発言が問題だということで批判を受けたことについて、首相は遺憾(いかん)であると言っている。

 体が不自由な人にはエレベーターがあることは有用だ。そのため、エレベーターはないほうがよかったというような首相の発言に反発がおきている。官房長官はこれにたいして、首相の発言はまったく問題がないものだと述べている。

 自分が言ったことなのにもかかわらず、それについて遺憾だというふうに首相は言う。二人の首相がいるのではないかということがツイッターのツイートで言われていた。

 発言が遺憾であるというよりは、(発言の内容についての)反応が遺憾だということなのだろう。負の反応がおきたことが、あるべきではないことであって、それが遺憾だということだ。

 首相が言う、いかんであると言うのには、大きないわかんをいだかざるをえない。体の不自由な人が利用できるようにするために、エレベーターをつけることが有用なのであれば、そうする必要性や理由があるということを示す。必要性があるていど以上あるのであれば、許容されてよいことだ。

 歴史や伝統を忠実に復元するのがよいということを首相は言いたかったのだろう。その前提条件に立つことから、大阪城にエレベーターをつけることが大きなミスだと言うことにつながっているのだ。この立ち場では、エレベーターをつけることが、まったく許容範囲外だということになる。つけるべきではないということだ。

 少なくとも、一つの立ち場や文脈だけではなくて、複数の立ち場や文脈に立ったうえで、発言をするべきだったのではないだろうか。歴史や伝統を忠実に復元するという立ち場に立てば、エレベーターはつけないほうがよいということが言えるかもしれない。その立ち場だけによってしまうと、ちがう立ち場である、エレベーターをつけることは必要性や理由があるので、十分に許容できるものだ、ということが切り捨てられてしまうのだ。

 参照文献 『究極の思考術』木山泰嗣(ひろつぐ)