映画の作品における、主題の優秀さ

 じっさいに映画は見ていない。なので、映画の感想ということではないが、新しく公開された映画である新聞記者では、映画でとりあつかっている主題がすぐれているのではないだろうか。この映画では、政治の権力にいどむ新聞記者のことが描かれているという。

 作品がすぐれているかどうかは、主題がどういうものかということによるのが一つにはある。新しく公開された新聞記者の映画では、それが意味あいの大きいものだということが言えるだろう。現実の社会に参与しているのだ。

 現実の政治では、いまの首相による政権のあり方には、よくないところが目だつ。国民にたいして説明責任(アカウンタビリティ)をきちんと果たしていない。開かれたあり方になっているとは見なしづらい。

 政治の権力について、権力チェックをしないとならないのが大手の報道機関だが、それがあまりできていないのだと言わざるをえない。政治の権力に逆らわず、ことなかれ主義で、右へならえといったようになってしまっている。まるで多くの高級な役人(官僚)のように、付和雷同になっているのだ。上が駄目なら、下も駄目になる、というところだろうか。

 大手の報道機関は、NHK がとくにそうだが、だらしがないところが少なくはない。その中で、数は少ないが、がんばっている報道機関や記者はいるが、映画の新聞記者では、そのことがとり立てられているという。

 現実の大手の報道機関による報道では、NHK なんかがとくにそうだが、時の権力であるいまの首相のことを、美化してしまっているのがある。いまの首相のことを、主役みたいな形でとり上げているのだ。これは、とり上げ方としておかしいことだと個人としては言いたい。いまの首相を美化するようにして、主役のようにとり上げるのは、権威主義のあり方だ。

 権威主義ではなくて、民主主義をとるのであれば、もっと大手の報道機関は、権力チェックを行なうように努めなければならない。そこに力を入れることが大切だ。そのためには、時の権力の太鼓(たいこ)持ちや幇間(ほうかん)になるのでは駄目だ。いまの首相のことを、美化して主役のようにとり上げるのではなく、逆に、映画の新聞記者のように、権力チェックをがんばって行なっている記者のことを、主役のようにとり立てるくらいでちょうどよいのだ。

 参照文献 『新・現代マスコミ論のポイント』天野勝文 松岡新兒(しんじ) 植田康夫 編著