国会の標準化の必要(正統と異端)

 選挙に向けて、候補者を立てる。国会議員の山本太郎氏によるれいわ新選組は、いく人かの候補者を立てているようだ。それを受けて、国会はもっと標準化(ノーマライゼーション)されることがいるのではないかというのがある。

 国会が標準化されることがいるというのは、標準とされる人が、もっと変わることがいるということだ。標準とそうではない(非標準)という二分があるとすると、このうちで変わることがいるのは、標準ではないとされる方ではなくて、標準だとされる方である。それが標準化ということだ。

 標準化は人間化(ヒューマナイゼーション)かつ平等化(イクォーライゼーション)でもあるという。国会や社会の中に、非人間的だったり非平等だったり自由がさまたげられていたりするところがあるのは無視できそうにない。そこを改めて行くのが標準化だ。

 社会の中には色々なちがいをもつ人たちがいるのであって、ちがいをもちつつ、生きて行きやすいようになってほしいものだ。そのためには、社会に色々なちがいをもつ人たちがいるということを、国会がもっと反映することがあってよい。国会がそれをすくい上げることが必要だ。

 標準ではないというのを排除するのではなくて、標準ではないというのに感化されることによって、標準だとされるものが、もっと変わって行くようであればよい。

 国会が数の多い少ないによって動くだけなのではなくて、それによりすぎないようにして、質を重んじられればよい。質のちがいを少しでも重んじるようにすることが、国会を標準化するということだ。同質の者だけによる独話や会話ではなく、対話ができるようにする。社会的排除が少なくなるようにして、社会的包摂が十分にとられるのがのぞましい。

 正統と異端がいるとすると、標準化がいるのは、異端ではなくて正統のほうなのだ。みんなができるだけ生きて行きやすい社会にして行くためには、そうなって行くように変革や微調整をして行くことがいる。それをになうのは正統ではなくて異端だ。変革は異端がになうということだ。よいほうへ変革できるとは限らないのはあるが、そうするためには、抑圧や搾取や排除される者ができるだけ生まれないためにどうするかという視点がいる。

 参照文献 『福祉国家から福祉社会へ 福祉の思想と保障の原理』正村公宏(まさむらきみひろ) 『日本の危機 私たちは何をしなければならないのか』正村公宏 『砂漠の思想』安部公房 『内なる辺境』安部公房