予測と誤差と、近代の変容(大きな物語による第一の近代と、小さな物語による第二の近代)

 予測にたいする誤差がおきる。予測が外れるということだ。

 こういうふうにすれば、こういうふうになる、というのがある。大きな物語による近代のあり方では、予測が当たるということがほぼ自明のこととされる。

 予測が当たるのがほぼ自明というのは、個人において、人生の先行きがあるていど読めるということだ。大きな物語による近代のあり方では、それができていたのだが、そこに誤差がおきるようになった。

 大きな物語による近代のあり方では、個人の人生は、あるていど同じような枠の中におさまった。それが、大きな物語がなりたたなくなったことで、色々な小さな物語になるようになった。働き方では、なろうと思えば基本としてみんなが正社員になれるのではなくて、非正規の労働が四割以上にのぼるようになる。ワーキング・プアが生じることになる。

 予測が当たるということなら、大きな物語による近代のあり方をとることになる。そうではなくて、予測に誤差がおきるという、誤差のところに目を向ければ、小さな物語となる。

 社会のあり方は、いまだに大きな物語のときのありようを引きずりつづけている。それにたいして、個人の人生は、予測がなりたちづらく、先行きが読めなくなっていて、小さな物語となっている。そのあいだのずれが無視できないものになっている。

 大きな物語によるのが第一の近代だ。小さな物語によるのが第二の近代だ。いまは第二の近代になっていて、近代の変容がおきている。それにもかかわらず、社会のあり方は、いまだに大きな物語のときのありようを引きずりつづけているのだ。それでくいちがいがおきている。

 予測は当たる、といったことを、国の政治ではとっているのだが、じっさいには誤差が大きくおきているのだ。これは、国の政治がとっている公共政策が、国民がのぞむものとはちがうものになっているということだ。

 いまとり沙汰されている、年金のことについては、かつて与党をになっていた(いまもになっているが)自由民主党が、かなり甘めの楽観の予測をして、ばらまき政治をしたことが、いまにおいてまずいこととなってあらわれている。甘めの予測に誤差がおきたのだ。この責任は自民党と高級な役人にあると言えるだろう。大手の報道機関にもまた責任はある。

 不易(ふえき)と流行ということで、不易に当たるものは、変えてはいけないので、保守することがいるが、流行に当たるものであれば、枠組み(パラダイム)を根本から見直すようにするのはどうだろうか。近代の変容ということで、小手さきで対応するのではなくて、枠組みを変えたほうがよい(または改めて見たほうがよい)ことは、中にはあるだろう。

 参照文献 『市民の政治学 討議デモクラシーとは何か』篠原一(しのはらはじめ) 『快楽上等! 三・一一以降を生きる』上野千鶴子 湯山玲子(ゆやまれいこ) 『ここがおかしい日本の社会保障山田昌弘 『大貧困社会』駒村康平(こまむらこうへい)