与党の政治家や高級な役人は、その体質(悪い体質)はいまだに変わっていないのではないだろうか(反省がないし、無責任となっている)

 国は秋田県にイージス・アショアを配備しようとしている。秋田県知事はこれに反対の意を示している。その秋田県知事にたいして、非国民だという声が投げかけられているのだという。

 県知事だけではなくて、秋田県民にも配備に反対する声がある。それというのも、役人がずさんなことをしていることが明らかになって、いいかげんなことになっているのがあるからだ。

 配備をするさいに、それを許容するかどうかは、その必要性がないとならない。客観の理由を十分に説明することがいる。これは必要だなというのではなくて、与党の政治家や高級な役人のごり押しによって、強引な配備をすすめるのにはうなずけるものではない。

 必要もないのに無駄なものをつくることは、これまでに与党の政治家や高級な役人によっていくつも行なわれてきた。自然を壊すダムや、原子力発電所などだ。これらをおし進めるさいに、与党の政治家や高級な役人によってとられたのが、カネとカタリだ。カネをばらまくのと、カタリでごまかしや嘘をつくことだ。原発でいうと、独占企業である電力会社による大量の原発マネーもある。

 戦前や戦時中に使われたものである、非国民というのを、いまの世の中において用いるのは適したことだとは言えそうにない。なるべく使わないようにすることがいる。

 非国民というよりも、地方自治や分権化がいるのではないだろうか。国は、地方の言いぶんにもっと耳を傾けるようにすることがいる。地方に住む住民の声で、とくに反対勢力(オポジション)に当たる声を無視するのはのぞましいことではない。反対勢力の声は、国にとってはうとましいものだが、(戦前や戦時中のように)国家公が肥大化するのではなくて、個人の私をとりたてることが、国民の益になる。

 そもそも、与党の政治家や高級な役人は、国の全体の益ということでは動いていない。それは、(与党の政治家や高級な役人の)誰一人として、と言っても言いすぎではないくらいだ。そうであるのだから、非国民などということはもともとがなりたたない。愛国か非国民かといった、一つの正解によることよりも、福沢諭吉が言っているように、民主主義は色々な意見が出る、多事争論(たじそうろん)であることがよいのだ。

 非国民ということは言えそうにないが、国民不在とか、有権者不在(有権者をないがしろにしている)とか、国民主権主義をないがしろにしている、ということは言えるだろう。国の政治がそうなってしまっているということだ。

 参照文献 『どうする! 依存大国ニッポン 三五歳くらいまでの政治リテラシー養成講座』森川友義(とものり) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『公私 一語の辞典』溝口雄三