政治において、どこが勝って、どこが負けるかというのは、本質の問題や核心の問題だとは言えそうにない(対立の争点の解消とはまた別だ)

 右派(保守)は政治において勝ちつづけている。左派は負けつづけている。いまの政治では、それが言えるかもしれないが、そもそも、日本の全体というくくりで言えば、日本そのものが全体として負けてしまっているのではないだろうか。

 日本そのものが全体として負けてしまっているというのは、たとえばこういうことにある。与党その他が大衆迎合主義(ポピュリズム)に走る。権力をになう政治家や高級な役人が、嘘やごまかしや改ざんを行なう。カタリ(騙り)がはびこる。情報の歪曲が行なわれて、フェイク・ニュースが流通する。大手の報道機関が、十分な権力チェックを行なわない。これらのことがおきてしまっているために、日本の全体が客観としてうまく行っているとか勝っているとはちょっと言いがたい。

 勝っているのと、負けているのというのは、部分に当てはまる。勝っている者(与党の政治家や高級な役人)が、でたらめなことをやっていれば(やって来ていれば)、それは部分だけにとどまらずに、全体に波及することになる。全体が駄目になってしまう。そういうことが言えるのではないだろうか。

 勝つか負けるかということで肝心なのは、どこが勝ってどこが負けるかということにあるのだとは言えそうにない。国民のみんなにとって益になるということが大切だ。功利主義でいえば、国民のみんなにとって効用の総量が多くなるということが勝ちだろう。このさいの国民というのは、いまの時点に限られず、将来にわたる人たち(次世代)を含む。また、ほかの国の人たちをくみ入れられる。

 功利主義だけでは不十分であって、少数者の利益というのが十分にくみ入れられないとならない。少数者が切り捨てられてしまうようでは、たとえ少数者が多数派に負けるのだとしても、それは日本にとってよいということには必ずしもならない。少数者が切り捨てられるのなら、日本の全体として見て勝っているということにはならないだろう。

 これまでに、権力をもつ政治家や、高級な役人がしでかしてきたいくつものあやまちやまちがったことがあるのにもかかわらず、それらの過去をまるで無かったことであるかのようにすることには、個人としてはうなずけるものではない。国の財政の巨額な赤字や、社会の中のさまざまな問題や課題の山積がある。それらがあるのに、どうして日本の全体がうまく行っていて、勝っているのだということができるだろうか。

 これまでに、政治の失敗やあやまちなどによって、さまざまな犠牲を生んできている。年間に自殺者が三万人ほどおきつづけていたのがある。そうしたことをくみ入れると、これまでに、権力をもつ政治家や、高級な役人によって、日本はうまくことを進めてきたとか、勝ちつづける歩みをたどってきたのだとは、言うことはできづらい。

 どういう視点で見るかというのでちがいがおきるのはあるが、これまでにおきた、まずいところやおかしいところなどの負のところに視点を向けることができる。それらは、これまでに勝ってきた者(与党の政治家や高級な役人)による責任が大きいのではないだろうか。それらの責任があるが、それが果たされずに、無責任体制となっている。

 参照文献 『「課題先進国」日本 キャッチアップからフロントランナーへ』小宮山宏