国民の代表のやることにたいするデモと、国家のもつ悪さ(悪いだけということではないが)

 香港や台湾で、大規模なデモが行なわれている。これには、大国である中国との対立が関わっているとされる。

 台湾や香港ではデモが行なわれているが、このことと、日本の国内における政権批判とを、結びつけるべきではない。いまの首相による政権への批判とからめるべきではない。そう言われているのがあるのだが、これにはうなずきづらい。

 文脈としては、公の異議申し立てということで、政治の権力がやろうとしていることや、やっていることのおかしさを批判するということとして見られる。

 日本に目を向けてみると、公の異議申し立てが、色々な経路で十分に行なえるようになっているとは言いがたい。自由民主主義における、競争性と包摂性がとれていなくて、一強(他弱)のあり方を許してしまっているのだ。政党どうしの政党間競争がはたらいていない。

 人によっては、差異によって別々のこととして見られるのはあるだろうが、それとは別に、類似した文脈のこととしても見られないではない。日本は民主主義の国家であるとはいっても、かなり形骸化してしまっていて、専制主義(デスポティズム)になっていると見られる。国の議会がきちんと役を果たせていなくて、骨抜きにされてしまっているところがある。

 一方向は単交通で、双方向は双交通だ。双方向の双交通や、創発による異交通のあり方がのぞましいが、日本の政治ではそうなっているとは言えないものだろう。一方向の単交通や、交通がさえぎられている反交通になっているのが強い。政治の権力が、上から一方的に働きかけることはあっても、他からの批判の声を受けとめることがほとんど行なわれていない。

 香港は香港、台湾は台湾、日本は日本、ということであるのはまちがいがないが、まったく相違しているとばかりは言えず、何らかの共通点を見いだすことはできないことではないだろう。それぞれにちがいがあるし、ちがうことがらなのだから、いっしょくたにするのは適しているとは言い切れないが、共通点ということでは、国家というものがもつ悪いところを見ることができる。

 国家というのは、いついかなるさいにも物理の暴力をはたらかせるのではないが、暴力を一手に独占しているために、国民(の一部)がもし国家の言うことを聞かないとなったら、暴力をあらわにしてくる。国家の政治の権力は国民にたいして支配としてはたらく。国家の公を肥大化させすぎないようにして、歯止めをかけるようにして、個人の私を重んじるようにすることが必要だ。

 参照文献 『新書で大学の教養科目をモノにする 政治学浅羽通明(あさばみちあき) 『公私 一語の辞典』溝口雄三現代思想を読む事典』今村仁司編 『どうする! 依存大国ニッポン 三五歳くらいまでの政治リテラシー養成講座』森川友義(とものり) 『言の葉の交通論』篠原資明(しのはらもとあき)