学問の自由はよいけど、ねつ造はいけない、というのは、学問の営みとして見るとどうなのだろうか(学問というのは、色々に自由な問いかけをとるのをよしとするべきだろう)

 学問の自由は大事だ。ただ、ねつ造はいけない。自由民主党の議員はそう言っていた。学問の自由は大事なことだとしつつも、反日売国となるようなねつ造はいけないというのだ。

 学問の自由とは何だろうか。学問については素人だから、まちがったことを言ってしまうかもしれないが、あることについて、逆や反対や多を許す、ということなのではないだろうか。逆や反対や多を許さないのなら、反証可能性がとれない。反証可能性がとれない(他からの批判にたいして開かれていない)のなら、それが正しいことなのかどうかがわからない。

 さまざまな意見というのは、その反対となるものがあると見なせる。何かにたいする異見ということになる。反対説となる、反対のものがあるのだ。意見と、それの反対となる反対説とのどちらが正しいのかということでは、それぞれがどういう根拠によっているのかということを見て、議論し合うことができる。

 学問の自由ということで、何かの一色(ひといろ)に染まらないで、多色であることがのぞましい。何か一つだけのものが全体をおおってしまう、一枚(ひとひら)のあり方ではないのが、自由であるということではないだろうか。

 現実というのは玉虫色だ。ゆえに、何か一色だけで見るのや、一つの空気だけに流されるのだと、見まちがいになりやすい。色々にあった方が、まちがいを避けやすい。現実は現象において玉虫色であって、したがってそれをとらえるさいにもそうなることになる。そしてそうできることが自由であるということだろう。

 色々あってよいというと、悪い意味での相対主義におちいってしまうのはあるかもしれない。そうなることはあるかもしれないが、性急にねつ造だと一方的に決めつけてしまうのではなくて、いわば最短ではなく最長となるようにする。

 すぐにねつ造だと一方的に決めつけてしまわないで、(悠長だというのはあるかもしれないが)最長になるようにして、引き延ばすようにする。そうするうちに、思想の自由市場のはたらきがはたらくことが見こめるし、引き延ばしていたものの決着がうまくつくときが来るかもしれない。

 参照文献 『新版 ダメな議論』飯田泰之 『裏声で歌へ君が代丸谷才一 『離脱願望 唯物論で読むオウムの物語』亀山純生 中西新太郎 後藤道夫他 『「表現の自由」入門』ナイジェル・ウォーバートン 森村進 森村たまき訳 『ラクして成果が上がる理系的仕事術』鎌田浩毅(ひろき) 『逆説の法則』西成活裕 『学問の技法』橋本努 『哲学的思考』西研 『使える!「国語」の考え方』橋本陽介