二〇〇〇万円を貯めておけ、ということだが、国民にたいする脈絡のある十分な説明責任がまったく果たされていない

 老後のために二〇〇〇万円を貯めておくように。金融庁は国民に向けてそう言っているという。老後において、年金だけでは暮らして行けないのだ。

 はたして、金融庁の高級な役人や与党の政治家の言うように、老後のために二〇〇〇万円を貯めておけば、それで安心なのだろうか。心配はないのだろうか。それには疑問を感じざるをえない。

 なぜ安心できず心配なのかというと、老後のために二〇〇〇万円を貯めておくように、と役人や与党の政治家が言うのを、そのまま受け入れてしまうことになるからだ。

 いま必要なのは、役人や与党の政治家が言う、老後のために二〇〇〇万円を貯めておくようにと言うのを、そのまま受け入れて、それにいそしむことだとは言えそうにない。いま必要なのは、高級な役人や与党の政治家の言うことをそのまま受け入れないようにして、批判をもってして見ることではないだろうか。

 たとえ役人や与党の政治家が言うように、二〇〇〇万円を貯めることができたのだとしても、可能性としてはそれで安心できるとは言い切れそうにない。予期せぬ色々なことがおきるおそれがある。お金というのはしょせんは紙くずだし、お金の価値は変動する。

 お金持ちと貧しい人という差は、現実としては歴然としてあるものの、お金というものは幻想だ。なので、お金持ちまたはお金を持っているから先行きが安心だ、とは言い切れないはずだ。お金持ちがお金持ちであって、貧しい人が貧しい人であるというのは、そういう秩序があることだが、それは差別による欺まんである。その差別による欺まんが、どこまで許容されるかという度合いがある。うんと許容されれば、うんと格差が開く。格差が固定化してしまう。

 高級な役人や与党の政治家が言うように、二〇〇〇万円を貯めることができたのだとしても、それをもってして必ずしも絶対に安心だとは言い切れないのは、どこまで高級な役人や与党の政治家のしでかしていることがおかしいのかの底が知れないからだ。政治がとてもまともであれば、二〇〇〇万円がそのまま安定して二〇〇〇万円として使えるかもしれない。

 高級な役人や与党の政治家がはかり知れないくらいにでたらめでおかしければ、二〇〇〇万円を貯めたという蓄積が、水の泡となるということがある。貯めた努力が水泡に帰すことがある。どうして、二〇〇〇万円を貯めるという蓄積が、これから先にまったくの水の泡にならないというまちがいのない保証ができるというのだろうか。

 肝心なのは、高級な役人や与党の政治家がどれくらいのでたらめやおかしいことをやっているのかや、これまでにやってきたのかを、きちんと十分につまびらかにすることではないだろうか。政治の主要な参加者のうちで、もっともないがしろにされてしまっているのが有権者だろう。ほかの参加者である、政治家や役人や圧力団体(経団連など)が幅を利かせてしまい、それらのやりたいようにやることが行なわれてしまう。そうした中で、有権者である国民の生活の安心は、十分なものとしてはのぞめそうにはない。

 参照文献 『どうする! 依存大国ニッポン 三五歳くらいまでの政治リテラシー養成講座』森川友義(とものり)