マレーシアにできるのなら、日本にもまたできるのかどうか

 マレーシアは消費税を廃止する。マレーシアにそれができて、日本にはなぜそれができないというのか。野党の政治家はそう言っていた。

 これについては、マレーシアと日本が類似しているというのであれば、類似からの議論がなりたつ。マレーシアにできるのなら、日本にもまたできるだろう。そうではなくて、類似ではなくてちがいがあるのなら、マレーシアにたとえできても日本にはできないという見かたがなりたつ。

 消費税ではなくて、社会福祉にもまたこれと同じようなことが言える。北欧の国は高福祉だが、日本でもまたそれができるはずだというのがある。これは、北欧と日本が類似しているのであればそう言えるが、ちがいがあるのなら必ずしもなりたたない。

 日本は自力でこれまでの総人口を保つための人口の再生産に失敗している。人口の減少がおきて超少子高齢の社会になることが避けづらい。その人口の移り行きと構成をくみ入れると、北欧のように高福祉はとりづらい。高福祉がとりづらいのにとどまらず、中福祉や低福祉ですら財源として難しくなっている。

 ほかにも色々な見かたはとれるだろうけど、悲観論で見られるとすれば、消費税を廃止するのや、高福祉をとるのは、できづらいのが現状だ。日本においては、いかに負担と受益において、効率化と公平化をなして行くのかが大切ではないだろうか。

 税金の無駄づかいや、低所得者に負担が重い逆進性などをそのままに放っておかないで、非効率で不公平なあり方を温存するのではないようにしたい。それを改めるようにして、現実味のある負担と、現実味のある受益をとるようにする。理想論としては、負担はゼロで(もしくはかぎりなく少なくて)、受益は最大、と行きたいものではあるが。

 理想論が現実に通用するのかどうかということでは、現実はそれとは整合していなくて、負担や受益の非効率さと不公平さがある。低所得者の世帯や個人には逆進性がはたらく。これから人口の減少と超少子高齢の社会になることで、とりわけ若い世代に負担の重みが大きくのしかかってくる。

 これまでに、将来の利益を先食いして来てしまっていて、いまもそれをしつづけていることのツケがあるのだ。国は財政において赤字を増やしつづけている。それはいまの首相による政権の経済政策であるアベノミクスにおいてもまたそうなのだ。理想論では、このツケを無いことにできるだろうが、はたしてそれが現実論として通じるのかは定かではない。理想論や楽観論が通じるのであれば、それに越したことはないのはあるが。

 参照文献 『財政危機と社会保障鈴木亘(わたる) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『高校生のための経済学入門』小塩隆士(おしおたかし) 『効率と公平を問う』小塩隆士