個としての特定の議員のおかしさと、それをとり巻く政治の全体や国会のおかしさ

 北方領土をロシアからとり返す。そのためにはロシアとの戦争をすることがいる。そうした趣旨のことを野党の議員は言った。これについて、この発言をした議員にたいする、糾弾決議案が提出された。戦争を持ち出すのは、議員の資格がないということだ。

 糾弾決議案が出されて、辞職をうながされているが、これをすなおには受け入れないつもりのようだ。国会は裁判所ではないし人民裁判はあってはならないと言っている。それに、ほかにおかしな言動をしている議員がいるというのである。公平性を欠く。

 視点を別のところに移してみると、政治において、色々なところにほころびがおきているのは無視できそうにない。いま権力をになっている首相をはじめとした権力者は、権力者が守るべき義務を守らず、特別なあつかいとなる不正な特権(privilege)をとってしまっている。これによって、政治の全体がおかしくなってしまっているのだ。

 戦争を持ち出した議員にかぎらず、政治の全体において、正義や公平ということがおかしくなってしまっている。不正義や不公平がまかり通っているのだ。なぜそうなっているのかの要因は色々とあるだろうが、一つには、いまの首相による政権が、数の力をもってして、ものごとを強引に押し通していることにある。

 さらに、いまの政権は、ご飯論法や信号無視話法やすれちがい答弁を多く行なっていることによって、議論がなりたっていない。こうしたことから、いまの政権が不正な特権をとることにつながっているし、不正義や不公平がまかり通ることになっている。

 いまの政権が、自分たちを特別あつかいするような特権をとることはあってはならないことだし、いまの政権が特権をとることで得をするようなことを許してはならないのではないだろうか。それを許すことから、自由主義における正義原則や公平原則(同じものには同じあつかいを、という原則)が損なわれることにつながっている。

 個としての特定の議員のおかしさがあるのとともに、それをとり巻く政治の全体や国会そのものがおかしくなっているのではないだろうか。そのおかしさというのは、社会状態が崩れてしまっていて、友(味方)と敵に二分する友敵論による自然状態(戦争状態)と化しているものだ。そうしむけている張本人がいまの首相による政権だ。

 政治というのは、多かれ少なかれぶつかり合うものなのだから、友と敵に二分することはある程度はやむをえない。そういう意見はあるかもしれない。それはたしかにあるものの、いまの首相による政権は、それにしてもその度がすぎるのだ。不毛な自己欺まんの自尊心(vainglory)や虚偽意識におちいりすぎているように映る。国民に広く益になっているとは言いがたいのだ。

 国会での建設的で生産的な議論を行なえるようにするには、いまの政権が特権をとることを廃するようにするべきで、政治の強者に有利にならないようにすることがいる。戦争をしてはならないとか、戦争はあってはならないとか、長い目で見た公平なあつかいとか、国民への透明性のある情報開示とか、説明責任(アカウンタビリティ)とか、そういった基本の価値をなすようにして、国会の議員の全体が、お互いに信頼し合えるあり方を、根本から立て直すことがいるのではないだろうか。

 参照文献 『法哲学入門』長尾龍一 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』井上達夫 『「説明責任」とは何か』井之上喬(たかし) 『政治のしくみがわかる本』山口二郎