おかしい実存(個人)と、まともな社会、という見なし方は必ずしもとれそうにない(政治を含めて社会がおかしくなってきている)

 死にたいのなら、一人で死ねばよい。複数の児童や大人を殺傷する事件がおきたことを受けて、そういう声が一部で投げかけられている。この事件では、複数の児童や大人が殺傷されたが、犯人は自分でその場で自殺をした。

 一人の人間という実存の点からすると、自分が死にたいのなら、他を巻きこまずに、一人で死ねばよい、というのは言えなくはないだろう。これは、実存を冷たくつき放して見るような見なしかただ。

 実存とは別に、社会として見ると、そもそも一人の個人である実存が、死にたいという気にさせないことがいる。死にたいというのではなくて、生きたいという気にさせることがいる。

 社会において、不正義がまかり通っていて、社会的排除や社会の分断がおきている。個への包摂が欠けている。それで生きて行きづらくなっているのだ。精神や肉体のストレスが日々においてかかる。ストレスというのはあなどれず、キラーストレスとなることがある。よくはたらくストレスも中にはあるが。

 無知と貧困がもとになって、そこから正常な事理弁識(分別)能力や行動制御能力を失う。それらを失ってしまうことで、正常な思考を失い、自他を傷つける犯罪につながってしまう。疎外された個は狂気にいたることがある。暴力によって、自他が否定されることを防ぐには、無知と貧困から実存(個人)を救い出すことがいる。

 いまのところ、社会の安全網はそこかしこが穴だらけで、疎外されている実存を救い出すことがきわめて不十分だ。無知と貧困に追いやられる(つき落とされる)危なさは誰にでもあるし、その不安は小さくはない。

 犠牲が生まれ、保存がつづく。保存されるのは社会のあり方だ。いまいちど、色々な大小の犠牲を生んでいる社会の欺まんを改めて見るようにして、社会の保存そのものに疑問符をつけてみることがいるのではないだろうか。そのためには、これまでの社会の歩みにおける負のところを十分にふり返ることが欠かせない。

 参照文献 『喜びは悲しみのあとに』上原隆 『啓蒙の弁証法テオドール・アドルノ マックス・ホルクハイマー 徳永恂(まこと)訳 『考えあう技術 教育と社会を哲学する』苅谷剛彦(かりやたけひこ) 西研