年金と宗教(天国と地獄)

 政府は、国民が天国に行ってから年金を受給させたいようだ。タレントのデーブ・スペクター氏はツイッターのツイートでそう言っていた。

 天国というのは宗教によるものだ。年金を天国に行ってから受給させるというのは冗談ではあるけど、もしそうであるということになると、年金は宗教のようなものになる。年金の受給が手の届きづらい超越になったということだ。

 天国というのはあの世だから、あの世に行ってから年金が受給できる。あの世に行ったらよいことがあるという宗教による教えと同じだ。年金の保険料を納付するのは、お布施や喜捨だ。

 年金は現世の世俗の制度のはずだが、それがいつの間にか現世ではすまず、来世でということになる。来世が持ち出される。受給の開始の時期がどんどん引きのばされることでそうなる。現実はかりに地獄だとしても、来世の天国でよいことが待っている。

 現実は地獄だというのは、年金の仕組みが賦課(ふか)方式であることによる。超少子高齢の社会になることで、(高齢の世代を支える)現役の世代や若者の世代の負担がどんどん大きくなる。負担が大きくなることは、それを地獄のようだと言ってもあながち言いすぎではない。

 地獄のようだと言ってしまうと、おどしのように響くかもしれないが、これから現役の世代や若者の世代の負担が、どんどんと高まって行くということだ。国の財政では、赤字をどんどんとためていっていて、つけを先送りしつづけている。超少子高齢は、二〇七〇年代を山の頂点として、そこにいたるまでこれから負担がずっと増して行く。頂点にいたっても、そのごも高位で安定する(楽にならない)。

 年金の制度は、財政としては実質として破綻している。国民年金の未納率は広く見るとなんと六割に達しているという。未納者が多数派なのだ。

 年金や社会保障の制度が抱えるまずさとしては、一つには、(社会保障が)個人を単位にしていないことだ。世帯の単位になっているのだ。困っている個人を救いづらい。柔軟さが欠けている。そこにおかしな自己責任論が入りこむ。

 制度のまずさとしては、人口の再生産がうまく行って、がんばればそれなりの生活ができる(がんばればむくわれる)ということをとっていることだ。この二つはすでに崩れている。崩れているのにもかかわらず、昔のあり方をずるずると引きずりつづけている。

 人口の再生産はうまく行かず、超少子高齢の社会を避けられない。がんばってもむくわれない、貧困の労働者(ワーキングプア)の人が多く出てきている。そこには、労働は美徳だとか、労働は自由にするだとかといった、労働の価値化(労働の文化価値化)が少なからず関わる。じっさいには労働は自由を損なう隷属だ。

 権力をもつ政治家や高級な役人は、制度の破綻をひた隠しにしている。数字を粉飾するなどしてごまかしているのだ。年金の制度の安定(というかとりつくろい)には、現世ではすまず、宗教化することで、あの世を持ち出すしかないのかもしれない。

 参照文献 『ここがおかしい日本の社会保障山田昌弘 『年金は本当にもらえるのか?』鈴木亘(わたる) 『トランスモダンの作法』今村仁司