攻撃ができていて、防御もできている、というはなはだしい自己満足

 攻撃ができる人は、防御もできる。首相はそう言っていた。議論において、攻撃ができることが、防御につながるということだろう。攻撃は最大の防御だと言われる。

 じっさいのところは、攻撃ができるというよりは、修辞(レトリック)に走ってしまっているのがいまの首相による政権だ。修辞というのは、それのみがあるだけでは駄目だ。すじ道が通っていなくて、修辞だけがあってもしかたがない。すじ道となる論理があることではじめて生きてくるのが修辞である。

 肝心のすじ道となる論理が欠けていて、修辞に走っていることから、ご飯論法や信号無視話法やすれちがい答弁が行なわれることになる。

 首相が攻撃と言っているのは、おもに(お前もそうだろとかどっちもどっちだろといった)人にうったえる議論や力(権力)にうったえる議論や情にうったえる議論をさす。それらはどれもきびしく見れば修辞における詭弁や虚偽だ。

 修辞の詭弁や虚偽におちいってしまってはしかたがないのだから、攻撃とか防御ということではなくて、政治における議論ということを改めて土台から見直すようにすることがいるのではないだろうか。何のために議論を行なうのかという目的や、どういう規則のもとで行なうのかがある。

 議論の規則というのは、対話的理性によるものだ。たとえば、聞かれたことに受け答えるさいに、かみ合うようにするのがある。適した質と量であることがいる。関連性や態度(開かれたあり方)によることも欠かせない。いまのところ、やり取りがかみ合わず、質と量などがめちゃくちゃで、それが許されてしまっている。

 議論には水準があるが、国会における政治のやり取りは、かなり水準が低いものであると言わざるをえない。日常の生活の中であれば、水準が低くてもかまわないものだが、公による政治のことでは、水準が低くてよいものではない。

 権力をもつ政治家というのは、反対勢力(オポジション)となる野党や報道機関の記者からの攻撃にあう。そこのたいへんさがあることから、友(味方)と敵に二分する方向へ行く誘惑がはたらく。権力をもつ政治家は、自分たちもまた攻撃する側に回りたいのだ。その誘惑に動かされるのは危ない。

 議論の水準を、日常の生活のような低いものではなくて、公の政治にふさわしいくらいのものに高めるのは、権力をもつ政治家にとってはやりたい気持ちにならないことだろう。議論のやり取りをするのはめんどうだしわずらわしい。そうしたことでやり取りが形骸化するのだ。

 議論の水準の高さと、ものごとを行なう適正さは、相関するのがある。いまの首相による政権のように、議論の水準が低いと、適正さがないがしろになりやすい。攻撃ということで、修辞に走ったり、すれ違い答弁を行なったりすることによって、ものごとの効率はよくなりはするものの、方向や目的がおかしくなりがちだ。

 方向や目的が適したものであってはじめて効率に意味がある。おかしな方向やでたらめな方向へ進んでいってしまわないために、いったん非効率になってでも、方向や目的や規則(議論の規則)をあらためて十分に見直したほうがよいのではないだろうか。

 参照文献 『わかりあう対話一〇のルール』福澤一吉 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『ゴシップ的日本語論』丸谷才一 『論理が伝わる 世界標準の「議論の技術」 Win-Win へと導く五つの技法』倉島保美