近代より以前の価値観に無批判に同化するのはどうなのか(近代が絶対的に正しいというのではないにしても)

 江戸時代には、士農工商の下に人間以下の人たちがいた。その人たちにも性欲はある。乱暴をはたらく。

 さむらいは、人間以下とされる人たちを刀で斬ることで世の中を守った。人間以下とされる人たちは犯罪者集団だった。

 野党の候補者は、動画の中でそう言っていた。これについて批判が投げかけられて、この候補者は党からの公認を一時的にとり消されることになったという。

 人間にたいして、人間以下というふうに見なすのは、合理の区別だとは言えないものだ。不合理の差別によるものだ。いまそうしたことが行なわれるのはあってはならないことだし、かつてそうだったのは、いまから見て肯定されるものではない。

 人間以下だということで特定の人や集団を定義(性格)づけや分類をするのは危ないことである。西洋では中世に魔女狩りが行なわれたが、そういったことが引きおこされることになる。魔女だということで一方的な定義づけや分類に当てはめられて、排除の暴力がふるわれるのだ。

 人間が人間を排除したり暴力を振るったりするということで、人間がもつ暴力性や野蛮さを無視することができそうにない。人間を性悪説で見ることができる。性悪なところが暴走したことは少なくなく、その失敗の情報をないがしろにすることはのぞましくない。

 西洋の中世において見られたような魔女狩りのようなことが、いまにおいて再びぶり返すことがおきるとまずい。ぶり返すことがないようにするために、かつての失敗の情報を思いおこして、風化したり忘却したりしないようにしたい。

 西洋の中世の魔女狩りにおいては、魔女だということで一方的に裁かれて排除の暴力が振るわれた。有罪推定の見なしかたがとられたことによって、多くのえん罪がおきたのだ。そこでは、えん罪ではないかという抑制の正義はとられることがなかった。人にたいする観念の思いこみであるステレオタイプが強くかかっていたのだ。

 正義が誤って不正義に転じる。そうなってしまうと、えん罪をおこさないようにするような抑制の正義がとられなくなる。もしいわれのないことで魔女だとか人間以下だとかのレッテルを貼られるのであれば、それを受け入れることはできないことだ。自由主義の正義論における無知のベールをとってみると、自分が魔女や人間以下とされることは受け入れられないのだから、不合理の差別となっているのだ。

 野党の候補者はいまの日本の憲法をないがしろにするようなことを言った。これが意味することとしては、憲法による近代の立憲主義自由民主主義の競争性や包摂性が、おそろかにされる政治や社会の風潮がおきていることを示す。

 絶対の主権国家の上には、国家の権力の暴走を防ぐために、憲法による近代の立憲主義自由主義がのっているが、それが崩れてきていたりはげかかってきていたりしているのである。絶対の主権国家(リバイアサン)の下には内乱(ビヒモス)や自然状態(戦争状態)がある。世界政府というものはないので、主権国家どうしは世界の全体の中で見ればビヒモスだ。あまり不安をあおりすぎるのはよくないかもしれないが、危機がおきているのだということができる。

 参照文献 『社会をつくる「物語」の力 学者と作家の創造的対話』木村草太 新城(しんじょう)カズマ 『人についての思い込み一 悪役の人は悪人? 心理学ジュニアライブラリ』吉田寿夫現代思想を読む事典』今村仁司編 『リヴァイアサン長尾龍一 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹