日本の国における同一性と差異(定項ではなく、変項としての日本の国や日本人)

 日本の国に生まれ育つ。そうであるのなら、日本の国が好きになって当たり前だ。日本に限らずどこの国でもそうだ。テレビ番組の出演者はそう言っていた。日本では、野党の一部の議員に反日が混ざっているのがおかしい、と言っていた。

 テレビ番組の出演者が言うこの見解にはうなずきづらい。日本の国に生まれ育ったからといって、日本の国が好きになるのが当たり前だとは言えそうにない。日本の国に生まれ育つことと、日本の国が好きになることとは、かなり飛躍がある。開きがある。

 日本の国が好きかそうではないか(嫌いか)というのは、くくりが大きすぎる。日本の国のここが好きだとか、ここが嫌いだとかというのがあるほうが自然だ。日本の国がまるごと好きだとか嫌いだというのはあまりないのではないだろうか。日本の国が丸ごと好きだとか嫌いだとするのは、少しだけ変である。部分を見ていないからだ。全体と部分とはえてしており合わない。

 人間がもつ感情は両価(アンビバレント)なものだ。好きと嫌いが混ざり合っている。かりに好きだということだけを取り出すとしても、日本の国のことが好きだからよいとは言えそうにない。場合分けをすれば、好きだからよいこともあるし、よくないこともある。嫌いだからよいこともあるし、よくないこともある(的はずれなこともある)。

 日本の国はよいというふうに基礎づけすることはできづらい。日本の国ということでそれぞれの人が思い浮かべることには大きなちがいがある。一つのというよりは、いくつもの日本の国があるということだ。実在しているものというよりは、偶像(イドラ)または集団の共同幻想によるのが日本の国だ。

 日本の国や日本人という集合(範ちゅう)は、純粋なものとは言いがたく、その中には色々なものが混ざり合っている。日本の国や日本人を、すべてが同じものであるというふうに、一般化や敷えんをすることはできづらい。

 日本の国そのものだとか、日本人そのものだとかというように意味づけをするのは、日本の国や日本人の事実そのものということにはなりそうにない。意味づけをしていることで、事実そのものから多かれ少なかれ離れてしまっているのだ。

 まったく異論がおきないで、すべての人が全会一致で日本の国が好きだとかよいだとかということであれば、それはそのすべての人において一致した意見がまちがっているということだろう。全会一致であるのなら、それそのものを疑ってかからないとならない。

 日本の国が好きだとかよいというのは、日本の国が好きではないとかよくないということの反対となるものだ。すべての意見というのは、その反対の意見への異論としてなりたつ。意見というのは異見なのだ。そうであるために、日本の国が好きだとかよいというのは、それがなりたつためにも、日本の国が好きではないとかよくないということがないとならない。日本の国が好きではないとかよくないということのほうがより根源にあるということがなりたつ。

 参照文献 『記号論』吉田夏彦 『「知恵」の発見』山本七平 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『自己変革の心理学 論理療法入門』伊藤順康(まさやす)