善と悪や、善人と悪人と、価値と反価値

 真善美は価値である。偽悪醜は反価値だ。真善美のうちで、善はその中の価値の一つとなるものだが、善人がいるとして、必ず善をなすと言えるのだろうか。

 福沢諭吉はこう言っているという。有徳の善人かならずしも善を為(な)さず。無徳の悪人かならずしも悪を為さず。有徳の善人だからといって、必ずしも善をなさないし、無徳の悪人だからといって、必ずしも悪をなさないということを言っているのだ。

 善人が価値をもち、善という価値をなすとは言い切れない。無徳の悪人は反価値をもち、悪という反価値をなすとはかぎらない。そういうことだろう。

 善の価値が順説としてはたらけば善の価値をなすことになるが、逆説にはたらくことがある。悪の反価値もまたしかりだ。

 ものさしである考え方の枠組み(フレームワーク)のちがいによって、色々に見られるのがあるから、一つの見なし方に固定されず、いくつもの見なし方がとれる。あるべき善という価値によりすぎてしまうと、色々とあるということが捨象されてしまいかねない。

 色々とあるということであまり相対化しすぎるのはまずいが、善という価値が他をしりぞける排他や排斥や排外としてはたらくと、視点が固定化されて硬直することで、視野がせばまる危なさがある。善や悪や、善人や悪人という白か黒かの箱に入れるよりは、ていどのちがいにすぎないものとして灰色や中間で見たほうが無難だ。

 参照文献 『学ぶとはどういうことか』佐々木毅(たけし) 『逆説の法則』西成活裕 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一