山本太郎氏がうさんくさいというより、まず権力チェックということで、いまの政権のうさんくささやカタリ(騙り)を見て行くことが先決ではないか

 平成のだめだめ政治家で、その一〇位に山本太郎氏が選ばれていた。テレビ番組でやっていた。山本太郎氏について、民の声として、なんかうさんくさいという声がとり上げられていた。

 番組の中では、パネルの山本太郎氏の写真映りについて、人相が悪くなったというふうにケチをつけていた。質問をしているときの人相が悪い。顔つきが変わった。

 人相が悪いというよりも、真剣になっているから顔つきがきつくなっているだけだろう。仏教で言えば、不動明王は怒りで顔つきがきついが、それをもってして内面を悪くおしはかるのは適したこととは言えそうにない。

 山本氏は新しくれいわ新選組を立ち上げたが、ほかの党名の候補として、ねずみ小僧というのがあったという。テレビの出演者は、ねずみ小僧は義賊とはいってもどろぼうにすぎないと言っていた。これはねずみ小僧にたいするわら人形攻撃ではないだろうか。ねずみ小僧は自分がお金を得るためではなくて、お金持ちから貧乏人へとお金を移したのだ。どろぼうという手段は悪いが、経済の格差という社会の中にある紛争の争点を何とかしようとしたのだ。

 最低賃金一五〇〇円や、消費税の廃止や、奨学金の徳政令などを、山本氏は公共政策としてうったえている。これらについて番組では、現実に実現の見こみが立たないということで、詐欺ではないかということを言っていた。

 テレビ番組の中では、平成のだめだめ政治家の一〇位ということで山本氏が選ばれていたが、これには違和感を感じざるをえない。山本氏はとくに失言をしたのではないから、おろかな失言をしたほかの政治家と同列に並べるのは適したこととは言えそうにない。

 いまは、政治の全体がおかしくなっていると見られるのがある。その全体の中に山本氏を位置づけるべきだ。少数派に属する山本氏について、単体でケチをつけるのは、弱い者を標的にすることに映る。ほかに目を移せば、もっと巨悪が政治の中心にあるからだ。政治の全体がおかしくなっている中において、例外的にましなところがあるのが山本氏だ。

 山本氏のかかげる公共政策には、荒削りなものが少なからずあるだろう。それは非や難となるものではあるが、大切なのは、きちんと重要な課題(アジェンダ)を設定したり問題化したり争点化したりすることだ。たくさんある潜在の課題や問題を顕在化させることがいる。山本氏にはたしてどれくらいの柔軟性があるのかはわからないが、まずは課題や問題を見つけて、それからそれをどうするのかという流れで、目的と手段とのあいだに柔軟性がもてればよい。

 いまの政権は、自分たちの手がらをほこっていて、自分たちに都合のよい物語に酔っているように映る。まずはそこから覚めることがいるのではないだろうか。色々な不正やおかしいことが、隠ぺいされたりごまかされたりすることによって、いまの政権がよいとかすごいという物語がなりたっている。

 いまの政権がよいとかすごいという物語にたいする批判は、権力へ寄生する冷笑主義とはまたちがう。批判(キニシズム)と権力寄生型の冷笑主義(シニシズム)とのちがいだ。いまの現実をよしとして、権力へ寄生する冷笑主義は、ナチスドイツにおいて見られたもので、全体主義を許す。

 いまの政権のていたらくでは、社会の中の問題を見つけたり、よりよい案(公共政策)をさぐるために話し合ったりすることはのぞみづらい。ご飯論法や信号無視話法がまかり通っているために、創造性が欠けているのだ。おまけに、ねずみ小僧のように義もないし、(儒教で言われる)仁もない。不仁となっているので社会の中がぎすぎすしている。政治の言動は場当たり的で、大衆への迎合(ポピュリズム)になっている。

 参照文献 『本当にわかる現代思想』岡本裕一朗 『一三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『政治家を疑え』高瀬淳一