デモをやることと、選挙で勝つこと

 デモをするよりも、選挙で勝て。デモをするくらいなら、選挙で勝つようにしたらどうなのか。そう言われるのがある。これにはすなおにはうなずきづらい。

 もしもこうであればこうだ、というのに当てはめていうと、こう言うことができる。もしもよい人が選挙で選ばれるのなら、選挙で勝とうとしたり、選挙で勝つことに力を入れたりするのは合理的だ。現実はどうかというと、その逆に、悪い人ほど選挙で勝って選ばれていはしないか。悪い人ほど政治の中心で権力をにぎる位置につく。

 選ばれる人がよいか悪いかということで、悪いというのは、大衆迎合主義(ポピュリズム)によるのがある。大衆迎合によっている方が勝ちやすいというのは現実にある。大衆社会や大衆国家になっているからだ。大衆は報道機関の報道などにあおられやすいと言われる。

 選挙のあり方に、色々とおかしいところがあるのだと言わざるをえない。これまでのあり方をそのまま自明とすることはできづらい。たとえば、選挙カーで候補者の名前をひたすら連呼するのは、有権者を馬鹿にしたものだ。

 力をもった後援会や知名度や財力のある候補者が選挙に通りやすいのは、公正なあり方とは言いづらい。これは三バンと言われるもので、地盤(後援会)と看板(知名度)とかばん(財力)だ。また、とり上げるべき争点や問題がおもて立ってとり上げられず、隠されてしまう。国民にとって意味のある課題(アジェンダ)の設定ができていない。

 選挙のあり方が開かれたものではなく閉じたものになっている。選挙のあり方や政治のあり方で色々とおかしいことがあるのを改めるのは、政治家にとって動機づけを持ちづらい。改める動機がおきづらいのだ。自分たちがそれによって選ばれているからだ。

 デモをやるよりも選挙で勝てというのは、その肝心の選挙や政治のあり方におかしいところが色々とあって、ちっとも改まってはいないのだ。肝心の選挙や政治がおかしいのだから、そのことをいったいどこにぶつけたらよいのだろうか。ふさわしい場所が見つからないから、やり場がないと言うしかない。

 場所が見つからないとか、やり場がないといっても、選挙の仕組みはまがりなりにもあるのだから、選挙の結果はいさぎよく受け入れて認めよ、ということはあるかもしれない。たしかにそれは言えるのはあるが、それで十分ということはないだろう。

 政治が不透明なのを改めて、透明性があるようにして、国民に十分に情報を公開する。国民のさまざまな声を政治がもっと受けとめるようにして、国民の参加や働きかけができることがのぞましい。知らしむべからずよらしむべしのような、権力をもつ政治家に任せてしまうようだと、権力をもつ政治家がやりたい放題になってしまう。

 福沢諭吉は、至強と至尊ということを分けているという。選挙でいうと、それに勝って政治の中心の権力をにぎるのは至強だ。至強はすなわち至尊だということにはならない。至尊はまた別にあるのだ。勝ったから正しいということではないということだ。そこを分けるようにして、至強がおごらないようにすることがいる。

 至強はすなわち至尊ではないので、一つではなく色々な民意をあらわす経路があったほうがよい。デモは民意をあらわす経路となる。表現の自由の権利として認められる行為だ。憎悪表現(ヘイトスピーチ)や排外によるデモはよくないが、そうではないデモであれば、民主主義の畳長性(多元性)をとるうえで益になる。

 参照文献 『学ぶとはどういうことか』佐々木毅(たけし) 『世襲議員 構造と問題点』稲井田茂 『新書で大学の教養科目をモノにする 政治学浅羽通明(あさばみちあき) 『哲学塾 〈畳長さ〉が大切です』山内志朗