血のコストというのは、独裁主義(ファシズム)や国家主義に結びつくのはあるが、平和に結びつくものとは見なしづらい

 血のコストをわがこととしてとらえるようにする。そうすれば、戦争にたいして慎重になるはずだ。政治学者の人はそう言っていた。平和を導くためには、徴兵制を行なうことがいるとしている。

 たしかに、当事者意識をもつことは大切なことだろう。日本人に当事者意識が欠けているというのは、当たっているところがないではない。日本人というふうにひとくくりにしてしまうのはまずいことではあるが。

 平和にするためには、血のコストをわがこととするのではなくて、命の大切さを言ったほうがよいのではないか。戦争とは話はちがうが、日本の社会の中では、まだまだ命が粗末にされていることが少なくはない。労働では、ブラック企業やパワー・ハラスメントなどがおきることにそれが示されている。

 平和にするという問題があるとして、その問題をどう解決するかがある。その解決の手だてとして、徴兵制にするのや、血のコストをわがこととするというのは、ふさわしいものかどうかに疑問符がつく。平和にするという問題を解決することが大事なのであって、徴兵制や、血のコストをわがこととすることが大事なのではない。平和にするという問題を解決するために、じっさいにその解決になるような手だてかどうかが肝心だ。徴兵制や、血のコストをわがこととするというのよりも、命の大切さをうったえることのほうがより大切なのではないか。

 命の大切さをうったえるといっても、きれいごとのように響くのはあるかもしれない。そう響くのはあるかもしれないが、そもそも血のコストというのもまたきれいごとだろう。戦争ほどかっこうが悪くてみじめでださいものはこの世にそうはない。戦争や軍隊がかっこうがよいというのは幻想にすぎない。そして、戦争や武力の行使によって踏みにじられてしまう(しまった)命は、かけがえのないものであって、大切なものなのだというのは、じっさいのことだろう。

 血のコストがどこかで支払われているという時点で、すでに平和ではない。血のコストが支払われているのは、紛争があることをあらわす。世界の中で物理の暴力による紛争が行なわれないようにして、血のコストが支払われないようにすることがいる。そうして行くことが、平和にすることだろう。

 徴兵制は、平和をうながすことを目的とするものではないのだから、それによって平和を導くというのは目的からするとそぐわない。徴兵制に国民がとられることによって、血のコストにたいする国民の意識が高まって、慎重になるという流れになるという確かな保証があるとは言いがたい。徴兵制によっていったい何にたいする慎重さが高まるというのだろうか。市民(公民)的不服従といったように、徴兵制にとられることを拒むほうが、むしろ慎重さが身につくのではないか。

 慎重さが大事だというのはたしかにあるが、それはそれそのものを大事にすることでよいのではないだろうか。戦争や武力を用いることに大胆にならないようにする。そのためには、できるかぎり戦争や武力の行使に抑制をかける法の決まりによる手つづきを守るようにする。その手つづきをすっ飛ばすことによって、大胆になって、戦争がおきたり、武力の行使がおきたりすることになる。

 平和のためには、血のコストをわがこととしてとらえるのがいるのだといっても、それが徴兵制という外からの圧力によるのにはうなずきづらい。平和というのはのぞましい価値となるものだが、それと共に、自由や自律という価値もある。徴兵制というのは外からの強制によるのでどちらかというと自由を損なうものだし、自律ではなく他律によるものだ。

 平和というのは、世界の平和というのがのぞましいものだから、国というのが絶対化されるのではなくて相対化されるのがのぞましいものだろう。国が相対化されるのがのぞましいのに、国ということの当事者の意識をもつのはどうなのだろうか。国家主義の意識を高めてもしようがないのではないか。それよりも、自由主義による国際協調主義のあり方をとったほうが、戦争や武力の行使によらない平和のあり方を探ることができやすい。

 参照文献 『一三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『憲法が変わっても戦争にならない?』高橋哲哉 斎藤貴男編著