じっさいにとり上げられたものだけではなくて、色々なところに主戦場があると見なせる(問題化と争点化)

 主戦場という映画では、従軍慰安婦のことがとり上げられているという。この映画では、従軍慰安婦はなかったという派とあったという派の両方から出演者が出ていて、対立が浮きぼりになるようにつくられているようだ。

 必ずしも映画の作品でなくてもよいが、二つの派をつき合わせるというのがほかのことでも行なわれたら、対立点を浮きぼりにすることができる。

 従軍慰安婦のことだけではなくて、ほかの話題では、国の財政をあげられる。財政再建はいるのかどうかとか、積極財政でばらまきをしても大丈夫なのか、それとも財政の支出を抑えて行くほうがよいのか、というのがある。

 日本の社会には、さまざまなところに主戦場があるが、それが十分にとり上げられているとは言いがたい。色々なところで、色々なことが主戦場となって、それがとり上げられることによって、対立点が浮きぼりになれば、たんに一つの派だけをよしとするのを避けられる。

 二つの派をつき合わせるときに気をつけないとならないのは、すでに通説(定説)となっているものに、ぽっと出の独自の説を、あたかも肩を並べるもののようにしてしまうことだ。

 すでに通説となっているものは、基本として立証が済んだことだと見なせるので、絶対の真理とまでは言えないが、まったくのいんちきだとも言いがたい。通説を否定するのであれば、その独自の説は、それが客観として正しいことを、十分な証拠によって立証する責任を負う。

 通説か独自説かなどの、説のちがいには気をつけないとならない。それらをいい加減にいっしょくたにはしないようにしつつ、対立する派どうしをつき合わせるのは方法としてはとれるものだ。

 じっさいに映画でとり上げられた、従軍慰安婦のことを見てみると、歴史における残された証言や資料などの痕跡は、それそのものに主観や意図が入りこんでいる。その残された痕跡を受けとるさいに、受け手の主観や意図がさらに入りこむ。そうしていく重にも主観や意図が、パイ生地のようになって重なることになる。

 真相となることはなかなか分かりづらいものだが、自分がよしとする派とはちがう派を、頭から否定しないようにして、排他にならないようにして、批判を受けることをこばまないようにできれば、開かれたあり方になる。多元のあり方になって、対話のやり取りをすることができれば、お互いに見直しや調整をしやすい。

 参照文献 『情報汚染の時代』高田明典 『究極の思考術』木山泰嗣(ひろつぐ) 『歴史入門』神山四郎 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『論理パラドクス 勝ち残り編 議論力を鍛える八八問』三浦俊彦現代思想を読む事典』今村仁司