恥を知るべきなのは野党というよりも政権や与党や省庁の高級な役人だろう

 憲法審査会を開くことを、野党はこばんでいる。会を開くことをさまたげている野党は、恥ずべきである。識者はそう言っていた。識者のこの見解には、個人的にはうなずくことができないものだ。

 与党は、憲法の改正をするために、憲法審査会を開きたい。数の力によって、憲法の改正をおし進めたいもくろみだ。これは順説のあり方と言ってよい。そうではなくて、逆説のあり方をとることがいる。逆説というのは、性急にするのではなく、科学のゆとりをもって、過程に時間や労力を十分にかけるものである。

 何のために憲法審査会を開くことがいるのかという点が肝心だ。会では、憲法の改正についてを話し合うのだから、それは民主的で効果のある話し合いとならなければいけない。はたして、いまの政権やいまの与党は、こうした話し合いができるのかというと、はなはだしく心もとないのだと言わざるをえない。

 国会において、政権や与党はご飯論法や信号無視話法やすれちがい答弁をいく度となくくり返している。議論の基礎が欠けている。こうしたていたらくでは、憲法の改正の話し合いをまともにできるとは見なしづらい。

 国会での政権や与党のていたらくをくみ入れれば、社会関係(パブリック・リレーションズ)がなりたっていないのは明らかだ。与党と野党とのあいだに、お互いに双方向のやり取りができるような関係ができているとは見なしづらい。憲法の改正の話し合いは、一定の信頼がある中でできるものであって、社会関係がなりたたなくて不信がある中では、話し合いの下地がまるでできていない。

 憲法審査会を開くべきなのにも関わらず、野党はそれをこばんでいるのは、恥ずべきことだというのを、抽象的に見ることがなりたつ。抽象的に見れば、するべきことを野党はしないのが悪いということだから、それは思いきり政権や与党にも当てはまるのである。するべきことをきちんとしていなかったり、してはいけないことをしたりすることが、政権や与党には山ほどある。

 不正や疑惑や怠慢があるのにも関わらず、それらを放ったらかしにしたり隠ぺいしたりごまかしたりしておいて、政権や与党はなぜ平気でいられるのだろうか。それらのうみ(危機)を一つひとつ時間と労力をかけてきれいにして片づけて行くのが先決であって、憲法の改正の話し合いは、どちらかというとそのあとの話だということが言えるだろう。

 参照文献 『逆説の法則』西成活裕 『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』森博嗣 『信頼学の教室』中谷内一也 『「説明責任」とは何か』井之上喬(たかし) 『議論のレッスン』福澤一吉